以前「偉人たちのカルテ(本の紹介)」という記事で、篠田達明 氏 著「偉人たちのカルテ 病気が変えた日本の歴史」を紹介させていただきました。
この本は、歴史上の偉人たちを悩ませた病気を、現代医学の視点で分析していく、歴史が好きな方へはお勧めの一冊です。
今日はこの中から、源頼朝についてご紹介させていただきたいと思います。
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源頼朝について
源頼朝(生誕:久安3年4月8日(1147年5月9日)、死没:建久10年1月13日(1199年2月9日))は、鎌倉に日本史上初となる武家政権「鎌倉幕府」を開いた人物で、後の武将たちの憧れ的存在でもあります。
以前は頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3(1192)年を、「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」として鎌倉幕府が成立した年とするのが通説でしたが、現在では、平家が滅亡(敵対武家勢力の消滅)し、頼朝が朝廷から守護・地頭の任命を許可する「文治の勅許」により守護・地頭の設置を認められた(軍事・警察・土地支配権を公認される)1185年とする説が優勢で、学校教科書でも鎌倉幕府成立を1185年とするものが多いです。
ただ、鎌倉幕府成立時期については諸説あり、確定したものはありません。
私たちがよく知る神護寺(じんごじ:京都市)の肖像画も、実は足利直義(あしかがただよし)ではないかと言われており、過去の出来事でありながらも、常に新しい発見がある「歴史」というもののおもしろさを感じます。
絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)
神護寺所蔵の三像のひとつ(神護寺三像参照)。かねてより伝・源頼朝像とされてきたが、1995年に米倉迪夫が否定説を出し、その過程で製作年が藤原隆信以後と認定されている。『神護寺略記』によれば、この寺の建立の際、隆信の描いた頼朝、平重盛、藤原光能、平業房(なりふさ, ?-1179)、後白河法皇らの像が、仙洞院に安置された。
Alleged Portrait of Yoritomo, Hanging scroll; color on silk. Owned by Jingo-ji temple in Kyoto. Formerly identified as the original portrait by Fujiwara Takanobu who according to the Jongoji ryakki, had painted the portraits of Yoritomo, Shigemori, Fujiwara Mitsuyoshi, Taira no Narifusa, and of Cloister Emperor Goshirakawa that were placed in the Sentōin building of the Jingo-ji temple at the time it was erected. But recent scholarship ascribes a later date to this piece than the artist’s lifetime, and perhaps it is a copy of the 1179 original by Takanobu (?). The long-held view that this represented Yoritomo was challenged in 1995 by Michio Yonekura, and in the argument appeared the reevaluation of the date. (“Three portraits at Jingo-ji” ja:神護寺三像)
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昔は顔が大きいことが人望の厚い名将の条件ともされていたようですが、やはり頼朝もとても顔が大きかったようです。
頼朝の外見については、「源平盛衰記」には、「顔が大きく容貌は美しい」と記されています。また、「平家物語」には、寿永2(1183)年8月、鎌倉で頼朝と対面した中原泰定(なかはらのやすさだ)の言葉として「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」と記されています。さらに、九条兼実(くじょうかねざね)の日記「玉葉」は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)とあります。
「平家物語」に「背低かりけり」と記されている頼朝ですが、愛媛県今治市にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に頼朝が奉納したと伝わる甲冑・国宝・紫綾威鎧(むらさきあやおどしよろい)があり、それを元に推測される頼朝の身長は165センチ前後あり、これだと当時の平均よりは長身であったことになります――平安時代末期の成人男性の平均身長は157cm程度とされています。ただしこれも「頼朝奉納と伝わる」なので、結局のところ頼朝の身長についてはっきりとしたことはわかっていません。
しかし、源頼朝の御遺体、御遺骨の存在は確認されていないため、本当のことはわかりません。彼が初めての武家政権を樹立したという偉大さから、「顔が大きい、容貌優美、威勢厳粛」等と記されるようになったのかもしれないし、本当にそうだったのかもしれないし、今は想像するしかありません。
康平6(1063)年8月、源頼義(みなもとのよりよし)が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりとされ、以来源氏ゆかりの神社として多くの人に親しまれている。階段左にあった大銀杏は、鎌倉幕府三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)が、この木の陰に隠れていた甥の公卿(くぎょう)(実朝の兄・頼家(よりいえ)の子)に切り付けられ殺害されたという逸話があり、「隠れ銀杏」とも呼ばれていたが、平成22(2010)年3月10日4時40分頃、強風のため根元から倒伏してしまった。
源頼朝は、「吾妻鏡」に「建久9(1198)年暮れ、頼朝は相模川の橋供養に出席した帰途、落馬していくばくもなく薨じた」と記されています。
慈円(じえん)の「愚管抄」(1220年)には、頼朝は受傷して数日後、京都に手紙を送った事実があるので、しばらくは意識があったようです。
馬術の達人であった頼朝が落馬するなんておかしい――ということで、後に「橋供養の場で毒を盛られ、これが回り落馬した」、また、南北朝時代に記された「保暦間記(ほうりゃくかんき)」では、「頼朝が平家の亡霊に脅されて落馬した」――など、様々なことが言われていますが、実際のことはわかりません。
源頼朝のカルテ
篠田達明氏は、「偉人たちのカルテ 病気が変えた日本の歴史」の中で、頼朝が馬上で脳卒中を起こしたか、馬が何かに驚き突然暴れだすといった特別な状況があったのではないか、と記されています。
この本のおもしろいところは、こういった歴史的な記録を基に、それがどういった症状で、どういった病気にあてはまるのかを診断し、さらにそこから何がわかるのか、現代ならどういう治療ができるのか等、様々な角度から検証していくところです。
頼朝の死については、御遺体、御遺骨が確認されていないため、科学的に分析することはできませんが、この本では、こういった状況証拠から「年の暮れに受傷して二週間あまりで死に至っているので、頭部外傷による硬膜下血腫、頸髄損傷といった深刻な怪我を負い、そのあと傷口から破傷風などの病原菌が入り込み、敗血症を起こした事態もあり得る」と分析します。
また、関白近衛家実(このえいえざね)の日記「猪隈関白(いのくまかんぱくにっき)」に、「前右大将頼朝卿、飲水に依り重病に」という記述があり、頼朝は糖尿病を患っていたのではないかとする説もあります。
もしそうだとすれば、糖尿病の合併症で体力が著しく低下していた頼朝は、少しの衝撃で落馬してしまったとも考えられますね。(頼朝さん、勝手な妄想お許しください……)
今も昔も、糖尿病は恐ろしい病気です。
もし当時、現代の医学、技術があったら何ができたか、、、
篠田達明氏は、この本の中で、「頭部外傷であれば、現代であればまずCT、MRIを撮って精査し、頭蓋に血腫ができて脳を圧迫していれば脳外科手術を行う。頭蓋損傷とすれば、現代ではかなりの重度であっても延命可能。破傷風は抗毒素血清の使用で完治が期待できる。全国の病院では、多くの脊髄損傷の患者さんが機能回復とリハビリテーションを頑張っている。駿馬を自在に操ったスポーツマン頼朝は、もし脊髄損傷で下半身麻痺となったとしても、現代だったらスポーツ用車椅子で喝采を浴びているかもしれない」と記しています。
幼い頃から度重なる苦難を乗り越え、強い意志をもって武家政権を樹立した頼朝です。例え落馬が原因で重症を負い後遺症が残ったとしても、現代の医学と技術が当時あれば、辛く苦しい治療とリハビリテーションを頑張り、様々な苦難を乗り越え、さらに積極的にいろいろなことに取り組んでいたかもしれませんね。
ちなみに、源頼朝が落馬で重症を負ったというのも確証はありません。頼朝の死因については、本当に諸説あるようです。
源頼朝の御遺体は、自身の持仏堂であった法華堂に葬られとされています。しかし、これがどこにあったのかもわかっておらず、現在の多層塔(たとうそう:源頼朝墓)は、安永8(1779)年に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたとされており、源頼朝墓には薩摩家の家紋である轡十字(くつわじゅうじ)を確認することができます。島津家は源頼朝の子孫を名乗っていますが、それも本当のことはわかりません。
源氏の家紋・笹竜胆(ささりんどう)の他に、島津家の家紋・轡十字(くつわじゅうじ)が確認できる。
医学は日進月歩です。今治せない症状も、おそらくいずれかは治療が可能となり、或いは予防すら可能となるでしょう。数年後、私たちも「もしあの頃に今の医学があれば――」なんて言われいるかもしれませんね。