絶世の美女、といえば、どのような方を思い浮かべますか?
私は、イタリアの至宝モニカ・ベルッチ(Monica Bellucci)も捨てがたいですが、やはり、オーストリア皇妃エリザベート(Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach)(1837年12月24日 – 1898年9月10日)の名前を一番にあげます。
シシィ(Sissi)の愛称でもよく知られていますね。
Kaiserin Elisabeth,1865 or before. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
Empress Elisabeth of Austria in Hungarian Coronation Dress,by Emil Rabending,1867. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
本来はドイツ語表記で「エリーザベト」と読むのが正しいのですが、私たち日本人には「エリザベート」として長く親しまれています。また、エリザベートは当時も今も人気があり、様々な書籍が出版され、ミュージカルも上演されています。
もちろん私も大好きなので、2010年京都国立博物館で開催された「THE ハプスブルグ」へも行きました。この企画展は、ハプスブルグ家の方々の肖像画が展示されており、どれも美しく、ため息の出るものばかりでした。そして、中でも一番光っていたのが、エリザベートの肖像画です。とても大きな肖像画でした。
ドイツの宮廷画家ヴィンターハルターに皇帝フランツ・ヨーゼフが依頼して描かせたもの。フランツはこれをとても気に入り「本当の皇后の姿を表したポートレイトを描いた作品はこれが初めてた」と漏らしたという。
Empress Elisabeth of Austria in Courtly Gala Dress with Diamond Stars by Franz Xaver Winterhalter, 1865. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
ちなみにこの肖像画でエリザベートがつけている髪飾り、ずっと昔、両親に連れられ、見に行った記憶があります。
複製品か本物かはわかりませんが、はい、確かに見ました。
エリザベートは、とても美しいのですが、宮廷での生活があわなかったこと、旅行をしているときに殺害されてしまったこと等から、その生涯には暗い影のような部分があり、この肖像画のドレス背後の影はそれを暗示しているのでは?等という都市伝説的なことも囁かれているようですね。
皇妃エリザベートの生前最後の写真 1898年9月9日
(奥がエリザベート、手前は侍女のシュターレイ伯爵夫人)
Last photograph taken of Empress Elisabeth of Austria-Hungary (1837-1898) at Territet, Switzerland, the day before her death. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
ちなみに、エリザベートを殺害したのは、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニという人物で、「高貴な人物なら誰でも良かった」と言っているらしく、偶然エリーザベトの居場所を新聞で知り、鋭く尖った短剣のようなヤスリを用意し、すれ違いざまにエリザベートの心臓を刺したそうです。
最初、エリザベートは何が起こったかわからず、驚きながらも、そのまま自ら歩き船に乗り、しばらくしてから倒れたそうです。
凶器が、どれだけ尖った細いものだったか、ということがわかります。
こんな最期、悲しいですよね、とても切ないです。
エリザベートの生涯は、様々なサイトでも紹介されているので、ここでは詳しく紹介はしません。
私がここでお話するのは、エリザベートの美貌についてです。
容姿について、どこからどう見ても完璧に見えるエリザベートですが、本人としては悩みもあったようです。
彼女は歯が黄ばんでいることを気にしており、写真をとるときはいつも口を閉じています。
他にも、面長で顎がしゃくれている、極端な撫で肩、鼻の穴が大きい、手足が太い、等ということを気にしていたようです。
Empress Elisabeth of Austria in Hungarian Coronation Dress,by Emil Rabending,1867. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
どうですか?
歯の色や手足の太さまではわかりませんが、エリザベートの悩み、私にはどれも理解不能です。
あえて、なで方といえば、そうかな、、、って感じですが、正直気になりません。
どんなに綺麗な方でも、悩みはあるんですね。
エリザベートは口元にコンプレックスを抱いていたので、人と話すときは扇で口元を隠していたようです。今だったら、歯の矯正やホワイトニングなんて、簡単にできてしまうんですけどね。
口元をきつく結び微笑む皇妃エリザベート
Elisabetta di Baviera in una foto di Oscar Kramer .Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
エリザベートは、身長172cm、体重50キロ、ウエスト47センチと、顔だけでなく、スタイルも完璧でした。
彼女は60歳でその生涯を閉じますが、それまでこの体系を維持していたというのですから、驚きです。
この本『皇妃エリザベート-ハプスブルクの美神』(知の再発見双書)は、エリザベート皇妃の数々のエピソードが豊富な絵や写真と共に紹介されており、さらに随所にエリザベート皇妃の詩が掲載されていて、「もっとエリザベート皇妃について知りたい」という方にはおすすめの一冊です。(画像をクリックするとAmazonホームページが開きます。)
弛みない美への追究
エリザベートの美に対する努力は非常に過酷なものでした。
彼女は172cmの長身に50キロ以下という体重を維持するため、毎日体重を量り、食事は牛乳にオレンジジュース、卵の白身、そしてどうしてもお肉が食べたいときは、プレス機のようなもので肉汁を絞り出し、それを口にしていたようです。
さらに、宮殿の一室を改装してジムをつくり、そこに平行棒や吊り輪を設置し、懸垂やねじり運動、柔軟体操など、毎日エクササイズに励みました。
エリザベートはジムでの運動の他、乗馬やフェンシング、速歩などにも励みました。エリザベートがあまりの早さで歩くので、おつきの女官たちはしばしば悲鳴をあげていたようです。
そして化粧室の奥に、イギリスから輸入した銅製の湯船を置き、これに牛乳の搾りかすと蜂蜜、オレンジを混ぜたものを入れ、毎朝水浴をしました。
また、細いウエストを維持するため、酢に浸した布をウエストに巻いて就寝していたとも言われています。
しかし、エリザベートはこれだけ過酷なダイエットに励みながら、甘い物が大好きで、ザッハトルテ、アイスクリームはよく食べていたそうです。私もザッハトルテ、大好きです。ちなみに上で紹介したエリザベート最後の写真は、お気に入りのお菓子屋で買い物をしたときの写真だそうです。
しかし、この過激なダイエットは、彼女の肌から水分を奪い、シミやシワにも悩まされていたようです。晩年の彼女は、カメラを向けられると、扇で顔を隠しました。
扇子で顔を覆う皇妃エリザベート
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
肖像画にも見るエリザベートの美しく豊かな髪は彼女の自慢で、自ら「髪は私の頭上の宝石」とも言っています。もちろん、この美しい髪を維持するための努力も相当なものがありました。
この絵は、いつもフランツ・ヨーゼフの執務室の片隅にかけられていた
Elisabeth Kaiserin von Österreich by Franz Xaver Winterhalter, 1865 . Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
エリザベートの髪を管理していたのは、ファニー・アンゲラーという女性で、もともとウィーンのブルク劇場で女優たちの髪を結っていたのですが、エリザベートに気に入られ、大学教授なみの高い給料でおつきの女官となったそうです。
ファニーは毎日二時間かけてエリザベートの髪を結い上げ、さらにケアの最中に髪が切れてもエリザベートに気づかれないよう、櫛に接着剤をつけるなどの配慮をしていたそうです。
エリザベートはファニーのことをとても信頼しており、ファニー以外に自分の髪を触らせなかったそうです。
ファニーが結髪を終え称賛の言葉を浴びせると、エリザベートは「私はこの髪の奴隷なの」と答えたそうです。
エリザベートの長い髪を洗うのは一日がかりの大仕事となるため、シャンプーは三週間に一度しかしませんでした。シャンプーは香料とブランデー、卵を混ぜ合わせた特別に贅沢なもので、マッサージも丹念に行われました。
正に「美は一日にして成らず」です。
エリザベートの美貌は天性のものですが、それを維持し、さらに輝かせるための努力をエリザベートは惜しみませんでした。もしかしたら、エリザベートは、国民が支える自分の皇后としての人気の一つが自分の類い希なる美貌であることを知っていて、それを磨き維持することが、自分が皇后として人々の前に立ち続ける責任だと自負し、強迫的ともいえるような美への追究を行っていたのかもしれませんね。
Elisabeth Kaiserin von Österreich by Franz Xaver Winterhalter, 1864. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
騎乗のエリザベート
エリザベートは、幼い頃から動物が大好きで、多くの馬や犬たちに囲まれて育ちました。そのせいもあってが、馬術の腕前も相当なものだったようで、彼女は容姿を褒められることより、馬術の腕を褒められることの方を喜んだといいます。
(Schloss Possenhofen)の前で馬に乗るエリザベート
Kaiserin Elisabeth von Österreich als Braut vor Possenhofen 1853, Stahlstich von A. Fleischmann nach einem Gemälde von Carl Piloty und Franz Adam, Königlich bayrische Kunstanstalt von Piloty und Loehle München, 62 x 51 cm. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
当時の高貴な女性の乗馬方法は、鞍をまたぐのではなく、両足を横に揃えて乗る「横乗り(アマゾネス)」という乗馬方法でした。さらに、エリザベートは優雅な乗馬ではなく、アクロバティックな乗馬を好んだため、「皇后は天使のようだが悪魔にように馬を駆る」とまで言われていたそうです。
この体勢でアクロバティックに馬を乗りこなし、しかもその腕前はオリンピック選手並みだというのですから、本当にすごいです。
エリザベートの乗馬に捧げる情熱は相当なもので、1870年代の約十年間がそのピークだったようです。その間、エリザベートはイギリス、フランス、アイルランドに滞在し、そこで乗馬技術を磨き、狩猟や競技会にも参加しました。そして体力を消耗する遠乗りの前には、栄養分の高いブイヨンとグラス一杯のワインを飲んでいたといいます。
さらにエリザベートは、馬術の技術もですが、同時にファッションにも気を遣っていました。細い体にあわせて仕立てた乗馬ドレス、そして長い髪は頭上でまとめ、シルクハットをかぶりました。
しかし、こんなにも情熱を注いだ乗馬を、エリザベートはある一時を境にやめてしまいます。
1875年9月11日、ノルマンディーのサスト・ル・モコンデュイで、愛馬スーヴから落馬し脳震盪を起こします。しかし、この事故が彼女が乗馬をやめた原因ではなさそうです。
エリザベートの馬術教師は、スコットランド人のベイ・ミルトンという青年でしたが、彼が結婚すると何故かエリザベートはあれほど夢中だった乗馬をぱたりとやめてしまい、かわり速歩に夢中になり、一日二時間のフェンシング、一日三回30分ずつの水浴をはじめたと言われています。何故エリザベートが乗馬をやめてしまったのか、想像するのは自由ですが、本当の理由はエリザベートしか知りませんので、ここで推測するのはやめておきます。
Kaiserin Elisabeth beim Hürdenritt, Stahlstich, 19. Jahrhundert; Bundesmobilienverwaltung. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
エリザベートと彼女の愛犬たち
エリザベートは動物の中でも特に犬が好きで、中でも大型の犬が好きだったようです。
彼女が愛犬と写る写真や絵画が多く残されています。
美女と大きな犬、どの写真も素敵です。
エリザベートと犬の写真、絵画を集めてみました。(全てパブリックドメイン・ライセンスの画像です。)
Kaiserin Elisabeth von Österreich mit ihrem Lieblingshund by Emil Rabending,1862. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
Kaiserin Elisabeth von Österreich mit ihrem Lieblingshund by Emil Rabending,1865. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
エリザベートと彼女の愛犬(1867年)
Kaiserin Elisabeth von Österreich mit ihrem Lieblingshund by Emil Rabending,1867. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
続いて絵画。
Kaiserin Elisabeth von Österreich auf den Stufen des Achilleons.Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
この絵は第二次世界大戦で焼失してしまっている。
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
1883年に写真をもとに制作された絵画
Portrait of Empress Elisabeth by Anton Romako , 1883 . Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
エリザベートとルートヴィヒ二世
動物を愛し、乗馬も大好き――本来エリザベートは活発な女性だったんでしょうね。フランツ・ヨーゼフ二世(Franz Joseph I)(1830年8月18日 – 1916年11月21日)に見初められ皇妃となり、宮廷に入ったけれど、そこでの窮屈な生活が、彼女の精神を蝕んでいったのでしょうか。
ちなみに、ノイシュヴァンシュタイン城の建設でも有名な、ルートヴィヒ二世(Ludwig II)は、エリザベートの親戚にあたり、この二人はとても仲が良かったようです。
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
さらに若い頃の写真がこちら。
ルートヴィヒ二世(Ludwig II)バイエルン王
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
本当に、ため息が出るほど美形な一族です。
エリザベートとルートヴィヒ二世は、ドイツの名門ヴィステルバッハ家の出身で、初代バイエルン国王マクシミリアン一世 (Maximilian I)はエリザベートの祖父、そしてルートヴィヒ二世の曾祖父という関係です。
幼い頃から夢見がちだった二人は気があい、ルートヴィヒは八歳年上のエリザベートを姉のように慕い、またエリザベートもルートヴィヒをかわいがり、二人はエリザベートが結婚したあとも頻繁に手紙を交わしていました。
女性に関心がないルートヴィヒでしたが、ある日エリザベートの妹、ゾフィー(Sophie Charlotte Auguste von Wittelsbach)との婚約を決意します。二人は共にワグナーの歌劇を愛しており、ピアノを弾きワグナーのアリアを歌うゾフィの傍らでそれに聞き入るルートヴィヒの姿が頻繁に見られています。人々はこの美男美女の婚約に沸きますが、やがて結婚の日が近づくと、ルートヴィヒの現実逃避がはじまり、精神は不安定となり、「結婚するくらいならアルプスの湖に身を投げたい」と漏らすようになります。そしてずるずると結婚の日付を先延ばししていきます。
Joseph Albert: Offizielles Verlobungsphoto König Ludwigs II. mit Prinzessin Sophie von Bayern,1867. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
煮え切らないルートヴィヒの態度に深く傷ついたのはゾフィです。いつまでも結婚を決意しないルートヴィヒに、ゾフィの父マクシミリアンは婚約を破談してしまいます。
このときはさすがにエリザベートも怒り、しばらく二人は絶好しましたが、すぐに仲直りしています。鏡を見れば自分が映るように、空の月が湖面に映るように、エリザベートとルートヴィッヒは、まるで自分の分身であるかのように、精神的にお互いを必要としていたのかもしれません。
この後、ゾフィはオルレアン家のアランソン大公妃となりましたが、1897年5月4日、パリでのチャリティーバザーの火災で焼死してしまいます。バザーの手伝いをしていた少女たちを先に避難させ、自分は逃げ遅れてしまったようです。遺体の損傷は激しく、歯形鑑定でゾフィーと確認されたほどでした。ルートヴィヒと共にワグナーの歌劇を愛したゾフィーは、とても心優しい女性だったようです。
ルートヴィヒは1886年6月12日、精神疾患を理由に廃位、逮捕され、ベルク城に送られます。そしてその翌日6月13日早朝、シュタルンベルク湖で、医師ベルンハルト・フォン・グッデン(Bernhard von Gudden)と共に水死体となって発見されます。グッデン博士の首に絞められた痕があったこと等から、ルートヴィヒがグッデン博士を殺害し、その後自殺したものと考えられましが、未だに二人の死の真相は謎のままとなっています。
シュタルンベルク湖のルートヴィヒを偲ぶ十字架。現在も世界中から多くの人が訪れ、若い王の死を悼んでいる。
エリザベートは、ルートヴィヒの死をひどく悲しみ、その様子は周囲が心配するほどだったといいます。
やがて、ルートヴィヒの精神疾患を理由とした廃位、そして謎の死により、ルートヴィヒと同じヴィステルバッハ家の血をひくエリザベートも狂人なのではという噂が囁かれるようになります。
ヴィステルバッハ家の呪い……
ヴィステルバッハ家は神聖ローマ帝国皇帝を二人も出した名門で、容姿が優れた人が多い家系として有名でしたが、精神を病む人が多い家系としても有名でした。この「ヴィステルバッハ家の呪い」にはエリザベートも悩んでおり、「私たちはみんな変死するの」と囁くこともあったといいます。
Coat of arms with supporters of Kingdom of Bavaria
Licensed under Creative Commons License ”CC BY-SA 3.0″ , via Wikimedia Commons.
精神疾患に遺伝的要因がどの程度関係するのか、その研究は今も続けられているところであり、ヴィステルバッハ家の血を受け継ぐ人たちが本当に遺伝的に精神を病みやすいのかどうか、はっきりとはいえませんが、ルートヴィッヒにしても、エリザベートにしても、繊細で傷つきやすい精神の持ち主だったように思います。
二人とも、窮屈な宮廷生活に精神を病み、現実逃避を続けていく――本当に、ヴィステルバッハ家の血は呪われているのでしょうか。
ゾフィーの焼死、ルートヴィヒの不可解な死、エリザベートの長男ルドルフの謎の死、そしてエリザベート本人も旅先で殺害されています。
謎の死を遂げたルートヴィヒを狂人と呼ぶ人たちに、エリザベートはこう言っています。
「人が狂人と呼ぶ人々は、みな理性的な人物のように思われます。本物の理性は、しばしば危険な狂気と受け止められるのです」
「彼は精神を病んでいたのではありません。ただ観念の世界で夢を見ていただけなのです」
さらに、エリザベートは自ら書いた詩の中で、ルートヴィヒにこう語らせています。「牢獄で朽ち果てるより ここで心臓が止まるほうがました」
事実、ルートヴィヒを廃位と逮捕に追いやった精神疾患の鑑定は、信憑性に乏しいといわれています。
ルートヴィヒも、もし現代のように多様な価値観が認められる時代に、国王ではなく一庶民として生まれていたら、もしかしたら芸術の世界でその才能を思う存分に開花させていたかもしれませんね。しかし、もしそうなら名城ノイシュヴァンシュタイン城はなかったわけで、そしたらディズニーランドのシンデレラ城も形が違っているわけで……そう思うと、やはりルートヴィヒはその時代に生まれ、苦悩しながらも生き、その中で彼が地域に残した遺産はとても大きなものだといえるでしょう。
今も愛され続ける皇妃エリザベート
エリザベートは、「ヴィステルバッハ家の呪い」に悩み、そして自らの精神の脆さも自覚していたのでしょう、病気の人や怪我を負った人などの弱者に、積極的に、そして親切に接していました。
夫ヨーゼフが1871年の誕生日に何がほしいかと尋ねたところ、エリザベートは「設備の整った精神病院がほしい」と答えたといいます。これは、宮廷生活への皮肉というより、エリザベートの本心だったのではないでしょうか。自らの脆い精神を自覚しているからこそ、弱い人たちに心から寄り添うことができたのかもしれません。
エリザベートは、オーストリア軍が戦ったときは、負傷兵の傍らに座り手術中ずっと手を握り励まし続けたといいます。そして、1874年には、ミュンヘンでコレラ患者を見舞い、感染も恐れず危篤患者の手を握りしめたといいます。この姿は、今の日本の皇室や世界の王族の方の姿と重なります。エリザベートは、国家が弱い立場の者に寄り添うことの重要さを、直感的に知っていたのかもしれません。
そして、確執のあった姑の死の床に付き添い、最後の瞬間まで食事もとらず看病したといいます。
皇妃エリザベートは、精神を病んでしまい、宮廷生活から逃避し、生涯旅を続けるのですが、それでも国民からはとても人気がありました。
悲劇的な最期を遂げてしまいましたが、現在もヨーロッパの人々から愛され、こうして遠い国の人々からも愛されています。
動物が大好きで、過激なダイエットをしながらも、スイーツが大好き、
ザッハトルテとアイスクリームをこよなく愛する Sissi は、やはり魅力的です。
エリザベートは、その生涯で4人の子どもに恵まれています。
しかし、1889年、息子、ルドルフ皇太子が拳銃で自殺(暗殺説もあります)をして以降、夫フランツ1世の死後喪服を着続けたマリア・テレジア(Maria Theresia)に倣い、彼女は生涯喪服で過ごしました。
晩年のエリザベートが、写真、肖像画で全て黒い服を着ているのは、このためです。
夫のフランツ・ヨーゼフ1世は、エリザベートが旅先で殺害されたことを知ると、「この世はどこまで余を苦しめれば気が済むのか」と泣き崩れ、生涯「私がシシィをどれほど愛したかは、誰にもわからないだろう」と繰り返し語ったと言われています。
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
長男ルドルフを抱く皇妃エリザベート。傍らに立ちこちらを振り向いているのが次女のギーゼラ。壁には夭折した長女ゾフィーの肖像画がかけられている。
Kaiserin Elisabeth mit ihren Kindern, Lithographie von Kriehuber, Laxenburg 1858. Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.