桜画像

花の陰 あかの他人は なかりけり

これは、小林一茶の有名な句の一つです。

桜の花の下に集う人たちは、みんな桜の花が大好きで、共通の目的をもって集まっている。
みんなそれぞれに顔も知らないし、みんなそれぞれに違うけれど、
「桜が好き」「桜を愛でたい」という思いは一緒で、そういう意味では全くの他人ではないのだ。

という想いが込められているそうです。
とても素敵な句だと思いませんか?
春爛漫と咲き誇る桜の下に、いろいろな人たちが笑顔で集まり、それぞれに桜を愛でたりお話をしたりしている、そんな風景が鮮明に浮かびます。

実は私、最近までこの句を知らなかったのです。
昨年夏、外国の方が来られて挨拶をされたき、この句を引用されました。
「私たちは、国も違えば言葉も違う、国の制度も違うし、顔も知らない人も多い、けれど、『子どもたちの明るく輝かしい未来を願う』という共通の思いをもっており、日々の業務にあたっている。そういう意味では私たちは全くの「あかの他人」ではない。自分はこの句をオフィスに飾り、毎日見ている。」

とても素敵な言葉でした。

これが、この句と私との出会いです。

小林一茶の肖像(村松春甫画)
Kobayashi Issa – Portrait by Muramatsu Shunpo (Issa Memorial Hall, Shinano, Nagano, Japan). Licensed under Creative Commons License ”CC BY-SA 3.0″ , via Wikimedia Commons

小林一茶といえば、

我と来て 遊べや親の ない雀

雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る

やせ蛙 負けるな一茶 これにあり

といったように、小さな生き物たちをよく観察し、優しく見守っているような優しいイメージがありますが、実はけっこうユーモアあふれる作品も多く、新しい小林一茶の魅力を発見することのできる一冊です。

童謡「一茶のおじさん」を知っている方は、今はきっと少ないですよね。
私の場合、祖母がよくこの歌を歌っており、幼い頃から親しんだものです。

童謡「一茶のおじさん」
(一)
一茶のおじさん 一茶のおじさん あなたのお国はどこですの
はいはい私の生まれはの 信州信濃の山奥の
そのまた奥の一軒家 すずめとお話ししてたのじゃ
(二)
一茶のおじさん 一茶のおじさん あなたのお歌をきかせてね
それでは歌ってみましょかね 私が小さなときじゃった
おせどの畑でひとりきり かあさん 思って詠んだ歌
我と来て遊べや 親のない雀 我と来て遊べや 親のない雀
(三)
一茶のおじさん 一茶のおじさん あなたのお国はどんな国
はいはい信州信濃はの 大雪 小雪の山の国
春が来たとてまだ寒い 雀も震えておりますじゃ

とってもかわいいけれど、なんだか少し寂しいような、切ないような印象を受けませんか?

小林一茶の生涯は、とても悲しいことが多かったようです。


小林一茶は、宝暦13(1763)年、信濃北部の北国街道柏原宿(長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受けます。本名を小林弥太郎と言います。

3歳の時にお母さんが亡くなり、その後、8歳の時にお父さんが再婚、継母に弟が生まれます。しかし一茶はこの継母とうまくいかず、14歳の春、江戸に奉公に出ます。江戸では奉公先を転々とし、貧しい生活を送っていたようです。
そうした生活の中で、一茶は俳句と出会います。

25歳の頃、二六庵竹阿(にろくあんちくあ)という山口素堂(やまぐちそどう)を祖とする葛飾派俳人の門人となり、28歳の時竹阿が亡くなると、葛飾派の本流である溝口素丸(みぞぐちそまる)に入門します。

寛政3(1791)年、29歳の時、お父さんの看病のために故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊します。

一茶は、後に記した「寛政三年紀行」の巻頭に、以下のように記しています。
西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕には武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。
自分はさすらいの身で、茶の泡のように消えやすい者だから、一茶と名乗ったという意味のようです

享和元(1801)年、39歳のとき再び帰省し、病気のお父さんを看病しますが、一ヶ月ほど後にお父さんは亡くなってしまいます。

その後、一茶は遺産相続で12年間継母・弟と争います。

文化5(1808)年、故郷でのお父さんの十三回忌でようやく弟と和解、しかし、すぐに故郷で暮らすことはできず、一茶はその後も4年間江戸で生活をします。

文化9(1812)年、50歳の頃に、一茶は、故郷の信州柏原に戻ります。
そして、52歳の時、28歳の妻きくを迎え、3男1女をもうけますが、何れも幼くして亡くなり、きくも痛風がもとで37歳のとき命を落とします。また、一茶本人も、58歳の頃に脳卒中で倒れ、半身不随となり、63歳のときには言語症を起こしていたようです。

62歳のとき、2番目の妻田中雪を迎えますが、半年で離婚します。

その後、64歳のとき、3番目の妻やをを迎えます。
しかし文政10年閏6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵での生活を余儀なくされます。
そしてその年の11月19日、一茶はその土蔵の中で、64年の生涯を閉じます。
彼が亡くなって間もなく、妻やをは一茶との子やたを出産します。

めでたさも ちゆうくらゐなり おらが春
(めでたい新年を迎えた。自分にとっては上々吉のめでたさとはいえないが、まずまず中くらいといったところだろう。)

明治時代を代表する俳人正岡子規は、「一茶の俳句を評す」の中で、「俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり」と、一茶を高く評価しています。

一茶はその生涯で約22,000句の俳句を詠んだと言われていますが、実は一茶の句、平成の今になっても新しく発見されているようです。

猫の子が 手でおとす也 耳の雪 (2010年2月)
ちるひとつ 咲のも一つ 帰り花 (2013年11月)

一茶の思いは、今の私たちには想像することしかできません。
ただ、幼い頃から感じていた「寂しい」という思いが、周囲の小さな動物たち、小さな自然、小さな出来事にも彼の心を向かわせ、その豊かな感性で詠まれた彼の美しい俳句は、時代を超え人々の心の奥底に響いているのかもしれませんね。