天皇の系図と呼称、そして十六葉八重表菊について

日本史上の出来事の原因、意味などを理解する上で、天皇の系図を頭に入れておくことはとても重要です。

今後日本史に関する記事を記載していく上で、天皇系図をまとめたページがあると便利だと思い、このページを作成しました。

なお、系図は宮内庁ホームページから引用させていただいています。

引用元:宮内庁HP(天皇系図)



天皇という呼称について

「天皇」は、現在「てんのう」と呼びますが、古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼んでいました。

ヤマト王権の頃は、首長のことを「大王」(オオキミ)と呼び、天武朝の頃から中央集権国家の君主として「天皇」という呼称が使われるようになったとされています。

「天皇」の表記については、大陸からもたらされた道教において、宇宙の最高神とされる「天皇大帝」(神格化された北極星)に由来するとする説が広く知られています。

「天皇」表記の成立時期

日本で「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説です。

天皇表記の成立時期については、以下の二つの説があり、近年では後者の方が有力とされています。

  • 初出とされる推古紀16年9月の条の「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。」であるとする説
  • 天寿国繍帳の「斯帰斯麻宮治天下天皇」(欽明)があり、さらに『懐風藻』序文で持統天皇以後についてのみ天皇表記が用いられていることを根拠に、皇后の表記とともに飛鳥浄御原令において規定され、使用されるようになったとする説

※『懐風藻』(かいふうそう)は現存する最古の日本漢詩集。撰者不明の序文によれば、天平勝宝3年11月(ユリウス暦751年12月10日 – 752年1月8日のどこか)に完成。

天寿国繍帳

天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)
中宮寺(奈良県斑鳩町)所蔵
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.

銘文によれば、聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女が作らせたものであるという。
「天寿国繍帳」は「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」という意味で、「天寿国」とは「阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すもの」と考証されている。
古記録に基づく考証によれば、制作当初は縦2メートル、横4メートルほどの帳2枚を横につなげたものであったと推定されるが、現存するのは全体のごく一部にすぎず、さまざまな断片をつなぎ合わせ、縦88.8センチメートル、横82.7センチメートルの額装仕立てとなっている。このほかに断片2点が別途保存されている。断片のみの現存であるが、飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品であり、国宝に指定されている。

「天皇」の公的な表記

日本で初めて天皇を自称したのは、第四十代天武天皇のようです。
在位中のいつから天皇と称したのかは明らかではありませんが、遅くとも天武6年(677年)12月には天皇号が使用されていました。

唐の高宗が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇表記を採用したのではないかと推測されています。

「天皇(大帝)」は中国古代の宇宙の最高神天帝の名で、道教思想と深い関わりを持ちますが、天武天皇の施政には道教的色彩が認められ、それは、天武が天皇表記を用い始めたとする説を補強するものとなっています。

天武天皇の孫、文武天皇の時、大宝律令で天皇の号が法制化され、天武天皇以降、およびその系譜を遡って天皇の諡号が贈られたようです。

 

十六葉八重表菊

観賞用のキクは奈良時代に中国大陸より伝えられ、その高潔な美しさが君子に似ているとされ、梅、竹、蘭と共に四君子(しくんし)とされました。

※四君子:蘭、竹、菊、梅の4種を、草木の中の君子として称えた言葉。また、それらを全て使った図柄、模様。

菊花紋は古くから、公家・武家の家紋、店舗の商標などとして、花弁の数、花弁の重なり(一重または八重)、表と裏(蕊(ずい、しべ))など、豊富な種類が図案化されています。なので、菊花紋だけで「皇室関係」というわけではありません。

 

数ある菊花紋の種類うち、八重菊を図案化した菊紋である十六葉八重表菊が、天皇および皇室を表す紋章です。

十六弁八重表菊紋
十六葉八重表菊
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皇室の菊紋を位置づけたのは、後鳥羽上皇(1180年8月6日〈治承4年7月14日〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)とされています。

後鳥羽上皇は菊を好み、自らの印として愛用していました。

刀を打つことを好んだ後鳥羽上皇は、備前一文字派の則宗をはじめ諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられており、自らも焼刃を入れ、それに十六弁の菊紋を毛彫りし、これを「御所焼」「菊御作」などと呼んだのが、皇室の菊紋のはじまりとされています。

その後、後深草天皇亀山天皇後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに32弁の八重菊紋である十六葉八重表菊が皇室の紋として定着したとされています。

後鳥羽上皇
後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)
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