今年2016年の大河ドラマは「真田丸」、主人公は真田信繁(真田幸村)です。
この「真田幸村」という名前、彼は生涯で一度も名乗ったこともなければ、呼ばれたこともないのです。
本人からしたら「え?ゆきむら?誰だよそいつ?」状態です。
彼の本当の名前は「真田信繁(のぶしげ)」といいます。
真田信繫/真田幸村 肖像画 <上田市立博物館所蔵>
Portrait painting of Sanada (Nobushige/Yukimura).Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
「真田幸村」という名前は、江戸時代に入り、彼の活躍を記した軍記物語から見られるようになります。
関ヶ原の合戦、大阪冬の陣、大阪夏の陣での彼の活躍はとても勇ましく、劣勢の豊臣方に忠義を尽くし、少数ながらも大奮闘します。大阪城入城の際、真田信繁が軍の鎧を赤で統一した「真田の赤備え」は、想像するだけでもかっこよく、わくわくします。
日本人は、今も昔もこういった物語が大好きです。
ただ時代は徳川の治める時代、徳川を追い詰めた敵方の武将の活躍を大っぴらに賞賛することはできません。
そこで、「真田幸村」という架空の人物を作り上げ、あくまで「物語」として楽しんだのです。
これに似たお話、聞いたことありませんか?
そう、「赤穂事件」-「忠臣蔵」です。
5代将軍徳川綱吉の治める元禄14年3月14日の出来事です。江戸城松之大廊下で高家旗本の吉良上野介に斬りつけた播磨赤穂藩藩主浅野内匠頭は切腹を命じられ、播州赤穂浅野家は御取り潰しとなります。家が御取り潰しになるということは、今で言う会社が倒産するようなもので、そこで働く藩士たちは失業してしまいます。自分たちの主君が切腹、お家御取り潰しにまでなったのに、吉良方には何のお咎めもない(浅野さんが吉良さんに切かかった本当の理由はわかっていません。)のは不公平である、と、残された赤穂藩士に不満が募ります。そして、元禄14年12月14日、残された赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り、主君の敵を討ちます。吉良上野介はここで殺されてしまいます。
元禄16年2月4日、江戸幕府は赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたとし、47名全員に切腹を命じます。
日本人は、今も昔もこういった忠義の敵討ちのお話、大好きですよね。当時の江戸の人たちにも赤穂浪士は英雄でした。(殺されてしまった吉良上野介さんは、地域のために良い政治を行い、領民からはとても慕われていたそうです。かわいそうなお話です。)
当時、江戸幕府は同じ時代に起きた武家社会の出来事を文芸等で取り上げることを禁止していました。
そこで生まれたのが「仮名手本忠臣蔵」の物語です。この物語では、事件の首謀者である大石内蔵助良雄(よしたか)の名前を大星由良助義金(おおぼしゆらのすけよしかね)と変え、その他の人物の名前も変え、時代も室町幕府の時代に変え、「違う時代の物語ですよ~」として描かれます。まあ、誰が見ても赤穂事件のお話なんですけどね。
ただ、赤穂浪士たちは、今では自分たちの名前を取り戻しています。歌舞伎ではあくまで物語としての大星由良助義金は存在しますが、私達が赤穂事件を語るときは、大石内蔵助良雄の名前を使います。その他の登場人物にしても同じです。
真田信繁さんは、どうして今でも「真田幸村」のままなのでしょう?歴史が好きな一部の人以外では、「真田幸村」の方が一般的だったりもします。
当の本人は、「え?ゆきむら?誰よそいつ?」と不満をもらしているか、「ゆきむら、おっ、いいかも~」なんて実は気に入っているか、それは、天国の真田信繁さんのみぞ知る、、、ですね。