平敦盛

能『敦盛』と、幸若舞『敦盛』とは全く異なるものなのですが、これらを混同している方がとても多いことから、それぞれについて記載したいと思います。

ここでは、幸若舞『敦盛』について記載します。

 

能『敦盛』については、こちらの記事をご覧ください。
能『敦盛』 ~往事を偲ぶ敦盛の優美で荘厳な舞~

 

ちなみに、戦国武将が好み、また、織田信長もよく演じていたといわれているのは、幸若舞『敦盛』です。

~略~
熊谷、よく/\見てあれば、菩提の心ぞ起りける。
「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。
我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。
思へば、此世は常の住処にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。
金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。
南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。
人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め
~略~

 

これは、幸若舞『敦盛』で、平敦盛を討った熊谷直実が、世をはかなみ、出家を決意するあたりの一節です。

ドラマなどで、織田信長がこれを詩舞しているシーンが多く放送されているため、このフレーズをご存知の方は多いのではないでしょうか。

事実、織田信長は、幸若舞『敦盛』の、特にこの節を好み、演じていたと伝えられています。

 

この「人間五十年」の意味についても、勘違いされている方が非常に多いようです。

 

これは、「人間の人生は五十年=昔の人は医療が未発達だし、栄養状態も良くないから、寿命が五十年くらいで短かかったんだなあ」、などと言う意味ではありません。

これには、仏教思想が強く反映されています。

ここにいう「人間」とは、「人=ホモ・サピエンス」の意味ではなく、仏教思想に基づく「人の世」の意味で、「じんかん」或いは「にんげん」と読みます。

仏教には、六道という世界観があり、これは、衆生(生きとし生けるもの:生類)がその業の結果として、六種の世界(あるいは境涯)を輪廻転生するという考え方です。

六種の世界とは、上から、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、そして地獄道であり、つまり、幸若舞『敦盛』にいう「人間」とは、「人間道」のことをいっています。

 

思へば、此世は常の住処にあらず

 

これは、衆生が輪廻転生するにあたり、人間界にいる「今――此処」は、ほんの「一部分――通過点」に過ぎない、ということをいっています。

そして、「化天」というのは、人間道の上、天道の一部で、比較的人間道に近い部分にあるとされる「六欲天」という世界の一部です。

化天(けてん)」とは、六欲天の第五位の世化楽天のことで、ここでは人間の800歳を1日とし、8,000歳の寿命があるとされています。

ただし、『信長公記』には「此時(桶狭間の戦い前夜)、信長、敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。」と記載されています。

下天(げてん)」は、六欲天の第一位の四大王衆天で、ここでは人間の50歳を1日とし、500歳の寿命があるとされています。

 

「化天」なのか「下天」なのか…………

いずれにしても、幸若舞「敦盛」の「人間五十年、化天(下天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」というフレーズは、「人の世の50年の歳月というものは、化天(下天)に比べれば夢幻のように短いものだ」という意味で、人の世の時間の短さ、そしてそのはかなさを歌っているものとなります

 

ちなみに、「人間50年」というフレーズについて、これは私の勝手な見解ですが、これは熊谷直実が振り返る自分の人生、そして敦盛が生きた時間のことなのではないでしょうか。

熊谷直実が出家した実際の年齢はわかっていませんが、一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ったのが44歳、そして亡くなったのが66歳とされています。

それで考えると、熊谷直実が出家を決意し、今までの自分の人生を振り返り、そして若くして死ななければならなかった敦盛を思い、「思へば、此世は常の住処にあらず――人である時間など、仏の世界でいえば、ほんの一瞬にすぎないのだ」と感じているこのときは、ちょうど50歳前後ではないでしょうか?

いずれにせよ、幸若舞『敦盛』にいう「人間50年」は、「人の一生」のことではなく、「人の世の時間」のことをいっているのであり、何度も言いますが、「人の寿命が50年」といっているのではありません

 

参考:「六欲天」

仏教には、六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)、また十界(六道の上に声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えたもの)といった世界観があります。

このうち、六道の地獄から人間までを、欲望に捉われた世界、つまり欲界といいます。

そして、天上界は細部に分けられ、上に行くほど欲を離れ、物質的な色界、精神的な無色界(これを三界という)があります。

ただし、天上界の中でも人間界に近い下部の6つの天は、依然として欲望に束縛される世界であるため三界の中の欲界に含まれ、これを六欲天といいます。

六欲天を上から記載すると次の通りとなります。

  • 他化自在天(たけじざいてん):欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処。天人の身長は三里、寿命は1万6千歳という。ただし、その一尽夜は人間の1600年に相当するという。天人としての他化自在天は、弓を持った姿で描かれる。
  • 化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん、とも):六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする。天人の身長は2里半で、常に光を放ち、寿命は8000歳で人間の800年を1日1夜とする。
  • 兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん、とも):六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。天人の身長は2里、衣重は一銖半、寿命は4000歳であるという。人間の400年をこの天の1日1夜とする。
  • 夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん、とも)六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界。衆生の身長は2由旬、天衣の長さは4由旬、重さは1銖(シュ、周代の単位で0.67グラム)であるという。寿命は2000歳で、その1昼夜は人間界の200年にあたるという。
  • 忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん、とも):六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所。衆生の身長は1由旬、衣の重さは6銖、寿命は1000歳で、その一昼夜は人間界の100年に相当するという。
  • 四大王衆天(しだいおうしゅてん、四天王の住む場所):六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所。衆生の身長は1由旬、衣の重さは6銖、寿命は1000歳で、その一昼夜は人間界の100年に相当するという。

六道と三界

 

幸若舞とは

幸若舞(こうわかまい)は、室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種です。

明治維新後、各地の幸若舞は衰退しましたが、福岡県みやま市瀬高町大江には現在も伝わえられており(重要無形民俗文化財(1976年指定))、大江天満神社で毎年1月20日に奉納されています。

幸若舞の里

 

幸若舞のはじまりについて、一説には、幸若舞曲を創始したのは、源義家(みなもとの よしいえ:1039年-1106年)から10代後の桃井直常(もものい ただつね:生没年不詳)の孫(あるいはひ孫)の桃井直詮(もものい なおあき:生没年不詳)で、幼名を幸若丸といったことから「幸若舞」の名が付いたとされています。

幸若舞は、中世から近世にかけ、と並び武家達に愛好された芸能であり、武士の華やかながらも哀しい物語を主題にしたものが多く、これが共鳴を得たことから隆盛をり、一ノ谷の戦いの平敦盛熊谷直実のことを物語とした『敦盛』は特に好まれました

 

幸若舞の曲目

「幸若三十六番」、「大頭四十二番」と称せられていますが、詞章の存するものは、『松枝』、『老人』などの小曲をのぞけば、四十四番です。これを古伝説物、源氏物、平家物、判官物、曽我物その他に分類すると、以下のとおりとなります。

  • 古伝説物:日本記、入鹿、大織冠、百合若大臣、信田
  • 源氏物:満仲、鎌田、木曾願書、伊吹、夢合、馬揃、浜出、九穴貝、文覚、那須与一
  • 平家物:硫黄島、築島、敦盛、景清
  • 判官物:伏見常盤、常盤問答、笛之巻、未来記、鞍馬出、烏帽子折、腰越、堀河夜討、四国落、静、富樫、笈さがし、八島、泉が城、清重、高館
  • 曽我物:切兼曽我、元服曽我、和田酒盛、小袖曽我、剣讃嘆、夜討曽我、十番斬
  • その他:新曲、張良

 

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幸若舞『敦盛』

ここからは、幸若舞『敦盛』について説明します。

これは、戦国武将が特に好み詩舞していた演目とされています。

栄華を極めた平家の没落、平敦盛という若く美しい少年の死、そして、戦の勝者となりながらも幸福感を得ることができず、魂の救いを求めて出家し、世をはかなむ熊谷直実の姿に、戦国武将たちは自分たちの姿を重ねていたのではないでしょうか。

そして、これは現代の人々にも非常に人気の高い演目となっています。

あらすじ

題名を『敦盛』としながらも、主役は熊谷直実です。

ちなみに、平敦盛も熊谷直実も、同じ桓武平氏の血筋となります。

平氏系図についての詳細は、こちらのページをご覧ください。
平氏系図~平氏と平家~

平氏系図

 

源平合戦絵屏風
源平合戦絵屏風(重要美術品) 伝:狩野元信 
赤間神宮所蔵
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.

寸法153×61.6、中央に福原の御所、右方は生田の森の争い、上部は一ノ谷、左方は須磨の浦での戦いが描かれている。上の絵は、熊谷直実が平敦盛を呼び止めているところ。

重要美術品は、文化財保護法施行以前、旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき日本政府が、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のこと。

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、「治承・寿永の乱」の一戦であ「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめます。

平清盛の甥であり、平経盛の子で、笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を忘れたことに気がつき、これを取りに戻ったため、退却船に乗り遅れてしまいます。

敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばします。
敦盛に気がついた退却船も岸へ船を戻そうとしますが、逆風で思うように船体を寄せることができません。また、敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり、馬を上手く捌けずにいました。(敦盛にとって「一ノ谷の合戦」は初陣でした。)

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みます。
敦盛はこれに受けあいませんでしたが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫します。

多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じますが、実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいます。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔を見たとき、元服間もない若武者であることに気がつきます。

名を尋ね、そこで初めて、数え年16歳の平敦盛であると知ります。

直実の同じく16歳の子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり。(実際は、熊谷直家は一ノ谷合戦で負傷はしましたが亡くなっていません。この部分は物語上の創作です。)

直実は、我が子直家の面影を敦盛に重ね、また、将来ある16歳の若武者を討つのを惜しみ、ためらいます。

しかし、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ります。

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりますが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめます。

合戦後の論功行賞も芳しくなく、同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意し、世をはかなみます。

現代によみがえる幸若舞『敦盛』

明治維新以降廃れてしまった幸若舞ですが、全国で唯一福岡県みやま市瀬高町大江所在の幸若舞保存会が、1787年(天明7年)ごろ山本四郎左衛門の大頭流として伝わって以来の口伝継承を保存しています。

幸若舞は、一般的に実際の演舞を伴わない演目内容のみの口承伝承であり、また、近代以降舞われることが少なくなったため、節回しや詳細な振り付けは不明な部分が多いのですが、幸若舞保存会では、平家物語を題材としたものを中心に伝承している42曲の台本のうち、『日本記』、『浜出』、『安宅』、『高舘』、『夜討曽我』など8曲について、節回しを再現してきました。

同会の演じる幸若舞は毎年1月20日に大江天満神社の幸若舞堂にて奉納演舞されており、1976年(昭和51年)に国の重要無形民俗文化財に指定されています

『敦盛』の節回しについても、第27代幸若舞家元の江崎恒隆氏、第30代家元兼幸若舞保存会会長の松尾正巳氏らの手により、2005年(平成17年)より大量の歴史資料検証による再現作業が重ねられ、2007年(平成19年)7月に復元が完了し、2008年(平成20年)1月20日の大江天満神社奉納演舞の際、松尾が主役である太夫(たゆう)、江崎が鼓方(つづみがた)を務めて復元披露されました
また、京都でも同会による公演が行われています。

 

【動画】2016年、大江天満神社、幸若舞堂での奉納演舞

幸若舞『敦盛』全文

引用元:新日本古典文学大系59『舞の本』(岩波書店)

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戦国武将に愛された芸能幸若舞は、読み物『舞の本』として近世庶民に親しまれました。軍記物語の名場面のほか、伝説「百合若大臣」「大織冠」など、独特の仏教観で色づけされた36話、そして板本の挿絵がすべて収録されています。

 

そも/\、此たび平家一の谷の合戦に、御一門、侍大将、総じて以上十六人の組足のその中に、もののあはれを留めしは、相国の御弟経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて、もののあはれを留めたり。その日の御装束、いつにすぐれてはなやか也。梅の匂の肌寄の優なるに、唐紅を召され、練貫に色/\の糸をもつて、秋の野に草尽し縫ふたる直垂、弓手の手蓋、両面の脛当、紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差ひたる染羽の矢、村重籐の弓、連銭葦毛なる駒に、梨子地蒔白覆輪の鞍置かせ、御身軽げに召されたる御馬、鎧の毛に至るまで、げにゆゝしくぞ見えられける。御一門と同、主上の御供を召され、浜に下らせ給ひしが、御運の末の悲しさは、漢竹の横笛を大裡に忘れさせ給ひ、若上臈の悲しさは、捨てても御出であるならば、さまでの事のあるじきを、且うは、この笛を忘れたらんずる事を、一門の名折りと思し召し、取りに返らせ給ひて、かなたこなたの時刻に、はや御一門の御座船を、遥かの沖へ押し出す。あら、いたはしや、敦盛。塩屋の端を心掛け、駒に任せて落ちさせ給ふ。

かゝりけるところに、武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、この度一の谷の先陣とは申せども、させる高名をきはめず、無念類はなかりけり。「あつぱれ、こゝもとを、良からん敵の通れかし。押し並べ、むずと組んで、分捕りせばや」と思ひ、渚に沿ふて下りしが、敦盛を見つけ申、斜めならずに喜ふで、駒の手綱うつ据ゑて、大音上げて申。「あれに落ちさせ給ふは、平家方にをきては、良き大将と見え申て候。かう申兵を、いかなる者と思し召す。武蔵の国の住人、私の党の旗頭、熊谷の次郎直実、敵にをひては、良き敵候ぞ。まさなくも、敵の鎧の総角、逆板を見せ給ふものかな。引つ返し御勝負候へ。いかに/\」とて、追つかけ申。あら、いたはしや、敦盛。熊谷と聞し召し。逃れ難くは思し召されけれ共、駒に任せて落させ給ふ。

かゝりけるところに、遥かの沖を御覧ずれば、御座船間近く浮かんであり。あの船を招き寄せ、乗らずものと思し召し、腰よりも、紅に日出したる扇抜き出で、はらりと開かせ給ひて、沖なる船を目にかけて、ひらり/\と招かるゝ。船中の人々に、人しもこそ多きに、門脇殿は、御覧じて、「母衣懸け武者の船招くは、左馬の頭行盛か、無官の太夫敦盛か。あれを見よ」との御諚なり。悪七兵衛承り、船梁につつ立ち上がり、長刀を杖につき、甲を脱いで、きつと見て、「いたはしの御事や。何として御座船に、召し遅れさせ給ひけん。経盛の御子息に、無官の太夫敦盛にて渡らせ給ひ候ぞや。召されたる御馬の毛、鎧の毛にいたる迄、まがふ所はましまさず。いたはしさよ」と申けり。門脇殿は、聞し召し、「敦盛ならば、この船を押し寄せて、助けよ」。水手、楫取、承り、臚櫂、舵を立て直し、船を渚へ寄せんとす。此ほど二三日吹きしほりたる北風の、名残の波は今日も立つ。風はきほおつて、波は強蛇のごとく也。白浪船世(元字は木篇)を洗ひ、砂子を天に上ぐれば、たゞ雪の山のごとくなり。小船こそ、自づから弓手へも馬手へも、思ふ様には扱はるれ、殊に勝れたる大船に、大勢は召されたり。畳む波に塞かれつゝ、次第/\に出づれ共、磯へ寄るべきやうはなし。

敦盛、この由を御覧じて、「いや/\、この馬を泳がせて、あの船に乗らふずもの」と思し召し、駒の手綱かい繰つて、海上にうち出で、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。いたはしや、敦盛。老武者にてましまさば、三頭に乗り下がつて、時/\〃声を立て給はば、御馬は逸物なり、沖の御座船に難なく馬は着くべきに、若武者の悲しさは、馬に離れて叶はじと、思し召されける間、前嵩に乗り懸て、左右の鐙を強く踏み、手綱に縋り給ひて、浮きぬ沈みぬ泳がせらるゝ。馬逸物とは申せ共、畳む波に塞かれつゝ、泳ぎかねてぞ見えにける。

熊谷、此由を見参らせ、「まさなの平家や。沖の御座船は、遥かにほどを隔てつゝ、しかも波風荒ふして、いかで叶はせ給ふべき。引つ返し御勝負あれ。さなき物ならば、中差を参らせん」と、弓と矢をうち番つて、そゞろ引てかゝりけり。敦盛、御覧じて、「なか/\錆矢に射当てられ、一門の名折り」と思召、駒の手綱引つ返して、遠浅になりしかば、水鞠ばつと蹴立て、染羽の鏑うち番ひ、かうこそ詠じ給ひけれ。
梓弓矢をさし矧げて引く時は返す事をば知るかぞも君
熊谷も、心ある弓取にて、「あつ」と思ひ、左右の鐙を蹴放つて、返歌と思しくて、かくばかり、
平題箭のはや外れんと思ひしにやと言ふ声に立ちぞ留まる
かやうに詠じて、待ち受け申。

さる間、敦盛、弓と矢をがらりと捨て、御佩刀ひん抜いて、「受けて見よ」とて、打たれたり。熊谷さらりと受け流し、取て直してちやうど打つ。二打ち三打ち、ちやう/\ど打合せけれども、いづれも勝負見えざれば、「寄れ、組まん」「尤」とて、互ひに打物がらりと捨て、鎧の袖を引つ違へ、むずと組んで、二人が、両馬の間にとうど落つる。あら、いたはしや、敦盛。御心は猛く勇ませ給へども、老武者の熊谷にて、物の数とはせざりけり。易/\と取て押さへ申。甲ちぎりてがらりと捨て、腰の刀ひん抜いて首を取らんとしたりしが、あまり手弱く思ひ、さしうつぶひて相好を見奉るに、薄化粧の鉄漿黒く、眉太う掃かせ、さもやごとなき殿上人の、年齢ならば十四五かと見えさせ給ふ。熊谷、あまりのいたはしさに、少しくうつろげ申。「上臈は、平家方にをひては、いかなる御公達にてましますぞ。御名字を御名乗り候へ」。あら、いたはしや、敦盛。老武者の熊谷に、組み敷かれさせ給ひ、よに苦しげなる息をつき、「げにや、熊谷は、文武二道の名人とこそ聞きつるに、何とて合戦に、法なき事をば申ぞ。我らは天下の朝臣とし、雲客の座敷に連なつて、詩歌管弦の道に長じたりし身なりしか共、この二三ヶ年は、一門の運尽き、帝都をあこがれ出しよりこの方、武士の勇める法をば、あら/\聞て候。それ、人の名乗といふは、互ひの陣に群がつて、軍乱れの折から、矢なき箙を腰に付け、鍔無き太刀を抜き持つて、これはしんぢやうその国の、何某、誰某と名乗て、打物の勝負をし、又組んで勝負を決するとこそ聞きつるに、我は敵に押へられ、下より名乗法とは、今こそ聞て候へ。あふ、心得たり、熊谷。名字を名乗らせ首を取つて、汝が主の義経に見せんためな。よし/\、それ、世には隠れもあるまじきぞ。たゞ某が首を取て、汝が主の義経に見せよ。見知る事もあるべし。それが見知らぬ物ならば、蒲の冠者に見せて問へ。蒲の冠者が見知らずは、この度平家の生捕りの、いかほど多くあるべきに、引向けて見せて問へ。それが見知らぬものならば、名もなき者の首ぞと思ひて、叢に捨てての後は用もなし、熊谷」とこそ仰けれ。熊谷承て、「扨は上臈は、武士の勇める法をば、詳しくは知ろし召されぬや。世にもの憂きは、我らにて候。君の御意に従つて、身を助けんとすれば、親と争ひ子と戦ひ、はからざる罪をのみ作るは、武士の習ひなり。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、清風朗月飛花落葉の戯れ、尚今生ならぬ機縁と承る。この度の合戦に人しもこそ多きに、熊谷が参り合ふ事を、前世の事と思し召し、御名乗候へ。御首を給て、たゞ奉公の其忠に、後世を弔ひ申べし」。敦盛は、聞召、「名乗らじものとは思へ共、後世を問はんず嬉しさに、さらば、名乗て聞かすべし。我をば誰とか思ふらん。門脇の経盛の三男に、未だ無官は仮名にて、大夫敦盛。生年は十六歳。軍は、是が始めなり。さのみに物な尋ねそよ。はや首取れや、熊谷よ」。

熊谷、承つて、「さては、上臈は、桓武の御末にて御座ありけるや。何、御年は十六歳。某が嫡子の小次郎も、生年十六歳に罷りなる。扨は、御同年に参候ひけるや。かほどなき小次郎、眉目悪く色黒く、情も知らぬ東夷と思へ共、我子と思へば不便也。あら無残や、直家、直実もろともに、今朝一の谷の大手にて、敵まれいの三郎が放つ矢を、直家が弓手の腕に受け留め、某に向かつて、「矢抜いてたべ」と申せしを、「痛手か、薄手か」と問ばやと思ひしが、いや/\、熊谷ほどの弓取が、敵味方の目の前にて、問ふべきかと思ひ、はつたと睨んで、「あら、言いに甲斐なの直家や。其手が大事ならば、そこにて腹を切れ。又薄手にてあるならば、敵と合ふて討死をせよ。味方の陣を枕とし、私の党の名ばし朽すな」と言ひてあれば、まことぞと思ひ、某が方を、たゞ一目見、敵の陣へ駆け入てよりその後、又二目とも見ざりしなり。さても熊谷が、つれなく命長らへ、武蔵の国に下り、直家が母に逢ひて、討たれたると言ふならば、眼路の母が嘆くべし。経盛とやらんも、花のやうなる若君を、渚に一人残し置き、さこそ嘆かせ給ふらん」。経盛の御愁嘆と、さて直実が思ひをば、物によく/\譬ふれば流水同じ水なれど、淵瀬の変るごとくなり。

熊谷、あまりのいたはしさに、又さし俯ひて、御相好を見奉るに、嬋娟たる両鬢は、秋の蝉の羽にたぐへ、宛転たりし双蛾は、遠山の月に相同じ、業平の往古、交野の野辺の狩衣、袖打ち払ふ雪の下、翠黛紅顔錦繍の粧ひを、たとへば絵には写すとも、此上臈の御姿を、筆にもいかで尽すべき、熊谷、心に按じけるは、「いや/\、この君の御首を給て、某、恩賞に与りたればとて、千年を保ち、さて万年の齢かや。末代の物語りに、助け申さばや」と思ひ、「なふ、いかに敦盛。平家方にて仰せらるべき事は、「武蔵の熊谷と申者と、波打ち際にて組みは組んで候へども、我が子の直家に思ひ替へ、助け申たり」と、御物語り候へ」と、取つて引つ立奉り、鎧に付たる塵うち払ひ、馬に抱き乗せ奉り、直実も共に馬に乗り、西を指ひて、五町ばかり行き過ぎ、後ろをきつと見てあれば、近江源氏の大将に、目賀田、馬淵、伊庭、三井、四目結の旗差させ、五百騎斗で追つ掛くる。弓手を見てあれば、成田、平山控へたり。馬手の脇には、土肥殿、七騎で追つ掛くる。上の山には九郎御曹司、白旗を差させ、御近習にとつては、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、亀井、片岡、伊勢、駿河、この人々を先として、声/\〃に申やう、「武蔵の熊谷は、敵と組んづるが、既に助くるは、二心と覚えたり。二心あるならば、熊谷ともに討ち取れ」と、我も/\と追つ掛くる。この君の有様、物によく/\たとふれば、籠の内の鳥とかや。網代の氷魚のごとくにて、漏りて出づべきやうはなし。「人手に掛け申さんより、直実が手に掛け、後世を某弔はばや」と思ひて、又むずと組んでとうど落、いたはしや、御首を、水もたまらず掻き落し、目より高く差し上、鬼のやうなる熊谷も、東西を知らで泣き居たり。

熊谷、涙を留め、御死骸を、かなたこなたへ押し動かして、見奉れば、鎧の引き合せに、漢竹の横笛を、紫檀の家に篳篥を添へて差されたり。又馬手の脇を見てあれば、巻物一巻おはします。「是は何ならん」と、開いて拝見仕に、あら、いたはしや、敦盛の、都出の言の葉を、くれ/\〃とこそ遊ばしけれ。此君、都に御座の御時は、按察使の大納言資賢の卿の姫君、十三にならせ給ひしが、天下一の美人にてましますを、仁和寺御室の御所にて、月次の管弦の有し時、敦盛は笛の役、同じ楽工にて、琴弾き給ひし御姿を、一目見しより恋と成て、歌に詠み、文に書きこさる。その文、数の重なりて、逢瀬の仲となり給ふ。中三日と申に、平家帝都の花洛を去つて、西海の波濤に赴き給ふ。あら、いたはしや、敦盛。御身は一の谷に御座あると申せども、御心は、さながら都へのみぞ通はれける。思召出されし時に、作られけるかと覚しくて、四季のちやうをぞ書かれける。先づ青陽の朝には、垣根木伝ふ鶯の、野辺になまめく忍び音や。野径の霞あらはれて、外面の花もいかばかり。重ね桜に八重桜。九夏三伏の夏の天にも成ぬれば、藤波いとふか、郭公。夜々の蚊遣り火下燃えて、忍ぶる恋の心す。黄菊紫蘭の秋にもなりぬれば、尾上の鹿、立田の紅葉、枕にすだく蟋蟀、聞かでや、萩の咲きぬらん。玄冬素雪の冬の暮れにもなりぬれば、谷の小河も通ひ路も、みな白妙に、四方なると言へ共、消えて跡もなし。名残惜しき故郷の木々の木末を見捨てつゝ、今は又一の谷の苔路の下に埋もるゝ、経盛の末の子の、無官の太夫、敦盛」と、書き留めてぞ置かれける。かれを見、これを見奉るに、いとゞ涙も塞きあへず。御死骸をば郎等に預け置き、御首、笛、巻物、供に持たせ、大将の御前に参り、此由かくと申上ぐる。判官、御覧じて、「あら、不思議や。この笛は、某が見知るところの候。それをいかにと申に、一年、高倉の宮、御謀叛企ての時、天下に、小枝、蝉折とて、二管の笛あり。蝉折をば、三井寺にて、弥勒に回向し給へり。小枝をば、御最後迄持たせ給ふ由、承るが、水無瀬光明山にて、討たれさせ給ひし時、此笛、平家の手に渡る。一門の其中に、笛に器用を召されしに、弱冠なれども、敦盛は、笛に器用の人也とて、下されけると承る。今朝一の谷の内裏役所にて、笛の遠音の聞えしは、此人の吹きけるか」とて、大将涙を流させ給へば、知も知らぬもをしなべて、皆涙をぞ流しける。

「敦盛は名大将、熊谷、いしくも仕たり。この度の勧賞には、武蔵の国長井の庄を取らするぞ。急ぎ罷り下れ」との御諚なり。熊谷が郎等ども、所知入せんと喜ぶところに、熊谷、その御返事に及ばず、涙の隙よりも、かくばかり、
人となり人とならばやと思ふさらずはつゐに墨染の袖
かやうに詠じ、御前を罷り立ち、「何として、敦盛の御死骸を、源氏雑兵の駒の蹄の通ふ処に、捨て置き申べきぞ。送り申てあればとて、よも罪科には行はれじ。いや/\、送り申さばや」と思ひ、塩屋の端に下り、小船一艘拵へ、雑色二人、侍一人相添へ、状を書きしたゝめ、八島の磯へぞ送られける。

平家は、元暦元年二月七日に一の谷を落ち、浦伝ひして、十三日の早朝に、八島の磯に着く。熊谷が送りの船も、同じ日、八島の磯に着く。敵味方の事なれば、其間はるかに臚櫂を留め、大音上げて申。「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひに罷り向かつて候。門脇殿の御内なる、伊賀の平内左衛門の尉殿へ、申たき子細の候」と、高らかに呼ばはる。あら、いたはしや、平家は、一の谷を落ち、海路遥かに落延びたれば、左右なふ源氏の勢の、かゝるべしとも、思し召されず、只此程の朦気には、波枕、楫枕、夢驚かす松の風、命も知らぬ松浦船、こがれて物や思ふらん。心細く思せしに、「源氏の船よ」と聞召、我先に/\と、臚櫂を速め、落ち行けども、東国の源氏に会はんと言へる平家なし。

大臣殿、御覧じて、「不覚なり、方/\〃。世は澆季に及て、時末法に帰すといふ。例へば、異国の樊膾(元字は口篇)が渡て乗つたりとも、あれほどの小船に、何ほどの事のあるべきぞ。誰かある。行き向かつて、聞て参れ」とありし時、平内左衛門承て、「存ずる道候。聞て参り候はん」と、屋形の内へつつと入て、出で立つ。その日の装束は、はなやかにこそ見えにけれ。肌には白き帷子皆白折て引違へ、褐の鎧直垂の、四の括り緒ゆる/\と寄せさせ、楊梅桃李の左右の小手、白檀磨きの脛当に、獅子に牡丹の脛楯し、糸緋縅の鎧の、巳の時と輝くを、綿噛取つて引つ立て、草摺長にざつくと着、結つて上帯ちやうど締め、九寸五分の鎧通しを、馬手の脇に差いたりけり。一尺八寸の打刀、十文字に差すまゝに、三尺八寸候ひける赤胴作りの太刀佩ひて、梨子打烏帽子に鉢巻し、白柄の長刀を杖につき、我に劣らぬ郎等どもを、七八人相具し、端舟下ろし、打ち乗り、面に楯を蔀ませ、ざゝめかひて押し寄する。樊膾が勢ひも、あふ、かくやと、思ひ知られてあり。

「抑源氏方よりも、熊谷が私の使ひとは、そも、何事の子細ぞや」。送りの者申。「さん候。敦盛を熊谷が手にかけ申、あまり御いたはしきによつて、御死骸に色/\の武具共、又は進状を相添へ、是迄送り申て候。急ぎ御座船に召され、阿波の鳴門にまします由を承て候が、やはか討たれさせ給ふべき。もし偽りにてや候らん」。送りの者申。「御不審は理誠偽りをば、たゞ船中を御覧ぜよ」と申。基国聞て、「げに/\、これは言はれたり」とて、送りの船に、我が船を押し寄せ、長刀を杖につき、送りの船をさし俯ひて見て有ければ、げにと色/\の縫物したる直垂に、敦盛の御死骸と覚しきを、押し包みてぞ置きにける。紫裾濃の御着背長、黄金作りの御佩刀、十六差いたる染羽の矢。村重籐の弓もあり。粉ふところはましまさず。基国、余りの悲しさに、長刀をがらりと捨て、送りの船に乗り移り、御死骸に抱き付き、泣け共さらに涙なし。叫べども声は出でざりけり。やゝありて、基国は、涙を流し、申やう、「いたはしや、この君の、一の谷を御出での時、この着背長を奉る。おとなしやかに、敦盛の、「いつしか御一門、世が世にまし/\て、四海に風の治まりつゝ、基国に所知領らせみるとだに思ひなば、いかばかり嬉しかるべき」と、仰られし其時は、基国が嬉しさを、何にたとへん方もなし。誠の時には動転し、召されざる敦盛を、一門の御船に召されつゝ、阿波の鳴門にましますと申たる、基国が心の中の不覚さよ。今一度基国かと、仰せ出され候へ」とて、消え入るやうに泣きければ、送りの者も、供人も、「げに理や、道理」とて、みな涙をぞ流しける。

送りの者申。「是は御使ひの身にて候。急ぎ御座船に御移しあれ」と申。基国聞て、「げに/\思ひに忘じ、思ひ忘れて候」とて、敦盛の御死骸を、我船に移し、大船に漕ぎ寄せ、「この由かく」と申上ぐる。
門脇殿も、経盛も、「何、敦盛が、討たれたると言ふか」「さん候」と申。「あら、不思議や。敦盛は、一門の船に乗り、阿波の鳴門にある由を、風の便りに聞しほどは、いかばかり嬉しかりつるに、熊谷が手に掛り、さては討たれてありけるか」と、涙ながらに出で給ふ。女房達にとりては、女院を始め奉り、宗徒の女官百六十人も、袴の稜を取り、皆船端に立ち出でて、御死骸に抱き付き、「是は、夢かや、現か」と、一度にわつと叫ばれしを、物によく/\たとふれば、これやこの、釈尊の御入滅の如月や、十大御弟子、十六羅漢、五十二類に至るまで、別れの道の御嘆き、かくやと思ひ知られたり。

やゝ有て、父経盛は、落つる涙の隙よりも、「あら無残や、敦盛。一の谷を出し時、故郷の方を見送り、心細げにて立たりしを、いさめばやと思ひ、「あら、不覚なりとよ、敦盛よ。三代槐門の家を離れ、屍を野山に埋み、名を万天の雲居に挙ぐべき身が、郎等の見る目をも恥よかし」と言ふてあれば、さらぬ体にて、渚まで下りしが、「笛を忘れて候」とて、取りに帰りし其時、共に帰らんと思ひつれども、敵味方に押し隔てられ、又二目とも見ざりしなり。情ある熊谷にて、形見これまで送りたり。空しき死骸、この形見、今日は見つ。明日より後の恋しさを、誰に語りて慰まん。なふ、人々」との給ひつゝ、悶へ焦がれ給ひけり。平家方の人々は、今一人の涙なり。

其後、熊谷が送たる状を召し出し、「大将なれば、此状を、もし義経ばし送りてあるか」。使ひは是非を弁へず、たゞ、「門脇殿へ」とばかり申。とても伊賀の平内左衛門へと書たる状にてある間、「家長、文を仕れ」「承り候」とて、船の船世(元字は木篇)に跪き、状を賜り、差し上げ、高らかにこそ読ふだりけれ。
直実謹言。不慮に此君と参会し奉し間、直に勝負を決せんと欲する刻、俄に怨敵の思ひを忘じ、却而武芸の勇み消え、剰は守護を加へ奉る処に、多勢一同に競い懸て、東西にこれは居る。かれは多勢、是は無勢。樊膾却而張良が芸を慎む。たま/\直実は、生を弓馬の家に生れ、巧を洛城に廻らし、命を同す。陣頭が夕、瀬ゞ万/\に及で、自他かくの面目を施せり。さても、此度、悲しきかなや、此君と直実、深く逆縁を結び奉るところ、嘆かしきかな、拙きかな。この悪縁を翻すものならば、永く生死の絆を離れ、一つ蓮の縁とならんや。閑居の地所をしめしつゝ、御菩提を懇ろに弔ひ申べき事、誠偽り、後聞隠れなく候。この趣をもつて、御一門の御中へ、御披露あるべく候。よつて恐惶謹言。元暦元年二月七日。武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実。
進上。門脇殿の御内なる伊賀の平内左衛門殿へ。
と読ふだりけり。御一門雲客卿相、同音に「あつ」と感じ給ひ、「げにや、熊谷は、遠国にては、阿傍羅刹、夷なんどと伝へしが、情は深かりけるぞや。文章の達者さよ。筆勢のいつくしさよ。かほど優しき兵に、返状なくて叶はじ」と、大臣殿返状を、経盛の自筆に遊ばして賜ぶ。

使ひは文を給はり、急ぎ一の谷に漕ぎ戻り、熊谷殿に見せ奉る。熊谷、「いかんとして、弓矢の冥加無くしては、経盛の御自筆を拝み申さん」と、三度戴き、開いて拝見仕る。その御書に曰く、

敦盛が死骸、並びに遺物給はり訖。此度、花洛を打立しより此方、なんぞ二度思ひ返す事のあらんや。盛んなる者の衰ふるは。無常の習ひ。会へる者に別るゝ事、穢土の習ひ。釈尊、羅候(元字は目篇)羅(らごら)、天の一子の別れにあらずや。いはんや凡夫をや。去ぬる七日に打立しより以来、燕来たつて語らへど、其姿を見ず。帰雁翼を連ね、空に訪れ通るといへど、その声を聞かず。されば、彼遺跡の聞かまほしきによつて、天に仰ぎ地に伏し、これを祈る。神明の納受、仏陀の感応を待つところによつて、七日が内にこれを見る。内には信心をいたし、外には感涙袖を浸すによつて、生れ来たれるに会へり。喜悦の芳意なくしては、いかゞその姿を二度見ん。すみ、すこぶる須弥の頂低うして、蒼海却而浅し。進んで是を報ぜんとすれば、過去遠/\たり。退き応へんとすれば、未来永/\たる物か。万端多しと言へど、筆紙に尽しがたし。是は武蔵の熊谷の返し状。

とぞ、読ふだりける。

去程に、熊谷、よく/\見てあれば、菩提の心ぞ起りける。「今月十六日に、讃岐の八島を攻めらるべしと、聞てあり。我も人も、憂き世に長らへて、かゝる物憂き目にも、又、直実や遇はずらめ。思へば、此世は常の住処にあらず。草葉に置く白露、水に宿る月より猶あやし。金谷に花を詠じ、栄花は先立て、無常の風に誘はるゝ。南楼の月をもてあそぶ輩も、月に先立つて、有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」と思ひ定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首を見れば、もの憂さに、獄門よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧を供養し、無常の煙となし申。御骨ををつ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を添へし白真弓、今は何にかせんとて、三つに切り折り、三本の卒塔婆と定め、浄土の橋に渡し、宿を出でて、東山黒谷に住み給ふ法然上人を師匠に頼み奉り、元結切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房と申。花の袂を墨染の、十市の里の墨衣、今きて見るぞ由なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき露の身と、消えにし人のためなれば、恨みとは更に思はれず。

かくて蓮生、黒谷に籠居し、正念念仏申てゐたりしが、ある時、蓮生、心の内に思ふやう、「紀の国に御立ある高野山へ参らばや」と思ひ。上人に御暇申、頭陀の縁笈肩に掛け、頼む物は竹の杖、黒谷を、まだ夜を籠めて出でけるが、都出での名所に、東を眺むれば、誓願寺、今熊野、清水、八坂、長楽寺。彼清水と申は、嵯峨の帝の御願所、すみともの造立、田村丸の御建立、大同二年に建てられ、万の仏の願よりも、千手の誓ひは頼もしや。「敦盛の聖霊頓証菩提」と回向して、西を眺むれば、丹波に老の山、下り口に谷の堂、峰の堂。北を帰て見送れば、内野を出でて蓮台野、舟岡山の墓じるし、見るに涙も塞きあへず。南を眺むれば、東寺、西寺、四塚、年はゆけども老もせぬ、六田川原とうち眺め、山崎、宝寺、関戸の院をうち過ぎ、八幡の山を下向して、惟喬の親王の御狩せし、交野の原を通り、禁野の雉子は子を思ふ。鵜ど野に茂き籬垣の、宿を過れば糸田の原、窪津の王子を伏し拝み、天王寺へぞ参りける。天王寺と申は、聖徳太子の御願なり。七不思議の有様、劫は経るとも尽きすまじ。亀井の水の流れ絶えぬぞ尊かりけると、伏し拝み候ひて、天野に参らるゝ。大明神と申は、高野の鎮守でおはします。「御山に法師を授けてたばせ給へ」と、懇ろに祈誓申て、はや高野山へ参らるゝ。忝くも高野山と申は、帝城を去つて二百里、郷里を離れ無人声、八葉の峰、八つの谷、峨ゝとして岸高し。青嵐梢を鳴らせど、夕日の影のどか也。

相賀の寺より、御影堂の谷、胎蔵界の大日、百八十尊を表せり。金堂の本尊は、阿■(あしゅく)、宝生、弥陀、釈迦、これ又大師の御作なり。大塔と申は、南天の鉄塔を学んで、兜率天のばんりを象り、十六丈の宝塔、上は千体の阿弥陀、中は千手の二十八部衆、下は薬師の十二神。生/\〃世々に際なく、衆生悪所の罪消え、来迎の三尊を拝むぞ尊かりけると、伏し拝み候て、奥の院へぞ参りける。道の辺りの白骨は、砂子を撒くがごとく也。いよ/\念仏申、奥の院へ参り、敦盛の御骨を籠め置き、蓮華谷の傍らに、知識院と申庵室を結び、峰の花を手折り、閼伽の水を掬び、行ひすまし、蓮生八十三と申に、大往生を遂げにけり。悪に強ければ、善にも強し。文武二道の名人、漢家は知らず、本朝に、かゝる兵あらじと、感ぜぬ人はなかりけり。

 

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