童謡唱歌 雅楽寮 「狼の歌」へようこそ。
第一回から、登場キャラクターを少々変更しております。
第二回は、私の大好きな「青葉の笛」をご紹介します。
この歌を紹介したくて、このチャンネルを立ち上げたといっても過言ではありません。
本当は、もっと上手に作れるようになってから「青葉の笛」をご紹介したかったのですが、とても待っていられませんでした。それくらい「青葉の笛」が好きです。
完成した動画を見て、不自然な箇所や無駄なシーンも多く恥ずかしいのですが、(「組み伏せられて」を「組み落とされて」とか言わせちゃってるし…………恥ずかしい…………)、まあ、ご覧ください。
童謡唱歌 雅楽寮 狼の歌 「青葉の笛(敦盛と忠度)」
動画は全部で8:40くらいで、はじめに解説をし、6:37あたりから歌を入れています。
唱歌『青葉の笛(敦盛と忠度)』について
唱歌『青葉の笛』は、明治39(1906)年『尋常小学唱歌 第四学年 上』に掲載された唱歌で、作詞は大和田建樹(おおわだ たけき)、作曲は田村虎蔵(たむら とらぞう)によるものです。
大和田建樹は、『鉄道唱歌』、『四條畷』、『あわれ少女』、『故郷の空』、などの作詞をしており、また、田村虎蔵は、『だいこくさま』『一寸法師』、『うらしまたろう』、『金太郎』などの作曲をしている、どちらも、童謡唱歌にとっては欠かせない人物です。
この『青葉の笛』、発表当時は『敦盛と忠度』という題だったのですが、途中で『青葉の笛』と改題されています。改題の経緯については、よくわかっていません。
題が『青葉の笛』となったことで、題名から感じる歌の雰囲気には情感が出ましたが、青葉の笛といえば、平敦盛、二番で歌われている、平忠度が隠れてしまったことは、少し残念な気がします。
歌詞について
これは、治承・寿永の乱(治承4年(1180年)~元暦2年(1185年))の中の、兵庫県須磨区で行われた「一ノ谷の戦い」が舞台となっています。
「一の谷の戦い」は、源義経(みなもとのよしつね)が「馬も四つ足、鹿も四つ足」と、急な坂を馬で下って奇襲を仕掛ける「逆落とし」(「鵯越の逆落とし」とも)が有名ですが、実際これは行われなかったとする見方も有力となっています。
実際、鹿と馬とでは骨格が違いますし、そんなこと義経さんだって知ってるはず――、また、戦いの場所も、一ノ谷説、鵯越説(一ノ谷から東方8km)とあり、はっきりとはわかっていません。
このように、治承・寿永の乱は、平家物語などでかなり脚色されており、どの合戦をとっても、悲しい戦いの物語であると同時に、人々の心をつかむ、美しい物語ともなっています。
「一ノ谷の戦い」で、「義経の逆落とし」に並び有名なのが、この唱歌に歌われている、平敦盛(たいらのあつもり)と熊谷直実(くまがいなおざね)、そして、平忠度(たいらのただのり)と藤原俊成(ふじわらのとしなり・しゅんぜい)の物語です。
唱歌『青葉の笛』の一番の歌詞は、平敦盛と熊谷直実のことを、二番の歌詞は、平忠度と藤原俊成のことを歌っています。
一番
一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
二番
更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉(ことのは)あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
ちなみに、平敦盛、平忠度、そして熊谷直実は、同じ桓武平氏の血筋であり、血縁関係にあります。このことからも、治承・寿永の乱が、単純な源氏と平氏の争いではないことがわかります。
平氏系図についての詳細は、こちらのページをご覧ください。
平氏系図~平氏と平家~
一番の歌詞に込められた物語(平敦盛と熊谷直実)
令和の時代に生きる人たちは、「あつもり」という文字から連想するのは、平敦盛なのでしょうか?それとも、「あつまれどうぶつの森」なのでしょうか?
1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、「治承・寿永の乱」の一戦である「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめます。
『源平合戦絵屏風』(重要美術品) 伝:狩野元信
赤間神宮所蔵
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.
寸法153×61.6、中央に福原の御所、右方は生田の森の争い、上部は一ノ谷、左方は須磨の浦での戦いが描かれている。上の絵は、熊谷直実が平敦盛を呼び止めているところ。
※重要美術品は、文化財保護法施行以前、旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき日本政府が、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のこと。
平清盛の甥であり、平経盛の子で、笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を忘れたことに気がつき、これを取りに戻ったため、退却船に乗り遅れてしまいます。
青葉の笛は、もともと弘法大師(空海)が唐へ留学していた時、長安の青龍寺というお寺の竹(天笠の竹)でつくったといわれており、大師が日本へ帰った後、これを嵯峨天皇に献上し、嵯峨天皇がこの笛を「青葉の笛」と名付け、その後、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだとされており、平家にとっても敦盛にとっても、とても大切な笛です。
敦盛は出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばします。
敦盛に気がついた退却船も岸へ船を戻そうとしますが、逆風で思うように船体を寄せることができません。また、敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり、馬を上手く捌けずにいました。(敦盛にとって「一ノ谷の合戦」は初陣でした。)
そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みます。
敦盛はこれに受けあいませんでしたが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫します。
多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応じますが、実戦経験の差、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずもなく、敦盛はほどなく捕らえられてしまいます。
直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔を見たとき、それが、とても美しい顔をした、元服間もない若武者であることに気がつきます。
今朝負傷したばかりの直実の息子は、この若武者と同い歳くらい――息子の姿と、若武者の姿が重なり、直実は敦盛を討つことをためらいます。
そんな直実に、敦盛は「はやく討て」と言います。
そして、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり。次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ります。
このとき、敦盛は若干16歳でした。
涙を流しながら見つめる敦盛の亡骸に、直実は、錦の袋に包まれた笛(青葉の笛・小枝)を見つけます。
今宵明け方、平家の陣から聞こえたあの笛の音は、この若者の笛だったのか――直実は、一層あふれる涙を押さえることができませんでした。
一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりますが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめ、やがて出家することとなります。
須磨海岸の近くにある須磨寺には、平敦盛の首塚があります。
この首塚(五輪塔)は、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立されたもので、須磨浦公園にある『敦盛塚』には胴体が祀られています。
平敦盛と熊谷直実の物語については、以下の記事でも紹介しています。よろしかったらご覧ください。
【参考】熊谷直実の生涯
熊谷直実(1141年3月24日-1207年9月27日(1208年10月25日とも))
通称とあわせた、熊谷次郎直実の名でも知られています。
熊谷之次郎直實像
北村西望作ブロンズ製(JR熊谷駅北口)
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熊谷直実は、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身で、幼名を弓矢丸といい、その名のとおり弓の名手でした。
幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光(くげ なおみつ)に養われます。
保元元年(1156年)7月の保元の乱では源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱では源義平の指揮下で働きました。
その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕えます。
源頼朝挙兵の直前、大庭景親(おおば かげちか)に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していましたたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵されます。
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参陣したときは、正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属し、逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入しますが、平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけています。
その後、海に敗走する平家の公達(平敦盛)と一騎打ちをして勝ち、その後の首実検で、この公達が、平清盛の甥、平敦盛だとわかります。
『平家物語』によると、若い平敦盛を討ったことにより、直実は出家への思いをいっそう強くしたといいます。
文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられたとき、弓の名手であった直実は、これを不服とし拒否したため、所領の一部を没収されます(当時鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)。
また、久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いも長期化しており、さらに若い敦盛を討ったことで心を痛める直実は、出家の方法を知らず模索します。
法然との面談を法然の弟子・聖覚に求め、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた聖覚が法然に取り次ぐと、直実は「後生」(死後いかにしたら成仏できるかということ)について、真剣にたずねたといいます。
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応え、その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本も切り落とそうと思っていた直実は、号泣したと伝えられています。
そして、建久4年(1193年)頃、熊谷直実は法然の弟子となり、法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)と称します。
出家後の連生は、幾つかの寺院を開基していることで知られています。
やがて、本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵(後の熊谷寺)で、念仏三昧の生活を送った。元久元年(1204年)、上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためます。この誓願状の自筆が、嵯峨清涼寺に残されています。
二番の歌詞に込められた物語(平忠度と藤原俊成)
無賃乗車することを「薩摩守(さつまのかみ)」といいます。
これは、平清盛の異母弟である平忠度の官名が「薩摩守」であったことから、「無賃乗車=タダ乗り=忠度=薩摩守」という、いわゆる駄洒落です。
いつから、無賃乗車することを「薩摩守」といっていたのでしょうか?
これについてはよくわかりませんが、狂言『薩摩守』に、渡し舟に乗り「平家の公達、薩摩守忠度」と言って舟賃を踏み倒そうとする僧が登場しており、かなり古くから知られた語呂合わせのようです。
あまりいい意味の言葉ではありませんが、このように、後世の人たちに広く親しまれるということは、ある意味、平忠度の供養にもなっているのかもしれませんね。
平忠度は、平清盛の異母弟で、平敦盛の叔父にあたります。
武人としても歌人としても大変優れた人物で、歌については、藤原俊成に師事していました。
平家が都落ちしたとき、従者6人と共に都に引き返し、俊成の邸を訪れます。
「落人が帰って来た」と動揺する家人達に構わず対面した俊成に、忠度は「争乱のため院宣が沙汰やみとなった事は残念です。争乱が収まれば改めて『勅撰和歌集を作るように』との院宣が出るでしょう。もし、この巻物の中に相応しい歌があるならば勅撰和歌集に私の歌を一首でも入れて下さるとあの世においても嬉しいと思えば、遠いあの世からお守りする者になりましょう」と、秀歌と思われる歌・百余首が収められた巻物を俊成に託して立ち去ったとされています。
一の谷の戦いは、この翌年のことでした。
平忠度(右田年英画、明治時代)
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歌人として優れていた忠度の歌は、平安末期の勅撰和歌集である『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)に収められますが、俊成は朝敵となった忠度の名を憚り、「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ「詠み人知らず」として掲載します。
さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな(千載集六十六)
しかし、鎌倉時代に編纂された『新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)では、晴れて「薩摩守忠度」と掲載されています。
たのめつゝ こぬ夜つもりの うらみても まつより外の なぐさめぞなき(新勅撰和歌集 巻第十三 恋歌三 854)
『平家物語』によると、「一ノ谷の戦い」のとき、忠度は源氏の勢に紛れて逃れようとしますが、源氏方の多くがしていない鐵漿黑(かねぐろ、お歯黒のこと)をしていたため、平氏であることがばれ、岡部忠澄(おかべ ただずみ)という武将に討ち取られてしまいます。
討たれた人物が誰であったのかわからなかったのですが、箙(えびら:矢を入れて背に負う道具)に結びつけられたふみに気づき、それを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていました。
行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげを やどとせば 花やこよひの あるじならまし
これにより、討たれた人物が平忠度であったことがわかります。
忠度の死を、「文武共に優れた人物を」と敵味方共に惜しんだといいます。
平忠度(小林清親画)
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戦後、岡部忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市にある深谷駅南口の清心寺に供養塔を建立します。
平忠度公墓(深谷市清心寺)
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また、明石市には、忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていました(現・天文町)。また付近に忠度公園という小さな公園もあります。
忠度塚から徒歩5分程度の場所には、平忠度の右腕を祀る「腕塚神社」があります。
これは、平忠度が打たれるとき、まず右腕を切られ、その後覚悟を決め、西に向かって高らかに念仏を唱えながら首を取られた、という、『平家物語』の逸話に基づくものです。
さらに、神戸市長田区駒ヶ林にも、忠度の腕塚と胴塚があります(神戸市認定地域文化財)。
忠度塚(明石市天文町2-2 )
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【参考】藤原俊成について
藤原俊成(ふじわら の としなり、しゅんぜい とも)(1114年年12月22日)
藤原俊成は、藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子で、。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗りますが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名ます。
法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られています。
『小倉百人一首』の選者として知られる、藤原定家(ふじわら の さだいえ、ていか とも)のお父さんです。
藤原俊成卿像(愛知県蒲郡市竹島園地内)
1991年4月、蒲郡市により建立。富永直樹製作。
『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名があることから建立されたもの。
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家集(個人歌集のこと)に『長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう)』『俊成家集(長秋草)』等があり、特に『長秋詠藻』は六家集(ろっかしゅう)の一つに数えられています。
ちなみに、六家集とは新古今時代の優れた六つの私家集のことで、以下のものが数えられています。
- 藤原俊成『長秋詠藻』
- 西行『山家集』
- 九条良経『秋篠月清集』
- 藤原定家『拾遺愚草』
- 慈円『拾玉集』
- 藤原家隆『壬二集』(玉吟集ともいう)
藤原俊成の歌は、『詞花和歌集』(しかわかしゅう)以下の勅撰集(天皇や上皇の命により編纂された歌集)に414首が採録され、その数は紀貫之・藤原定家に次いで歴代歌人3位となっています。
歌風は「たかくすみたるを先として艶なるさまもあり」、「やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき」と評されたように、格調高く深みのある余情美を特徴とし、古歌や物語の情景・心情を歌に映し奥行きの深い情趣を表現する本歌取や本説取(物語取)などの技法を確立します。
歌合の判詞の中で用いた「幽玄」「艶」は、歌道から能楽・茶道をはじめとする日本の芸能に影響を与え、中世を代表する美的理念となっています。
また門下からは息子・定家をはじめ、寂蓮、藤原家隆、後鳥羽院、九条良経、式子内親王など優秀な歌人が輩出し、指導者としても新古今歌風形成に大きな役割を果たしています。
須磨寺 のご紹介~源平ゆかりの名刹~
正式名を上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)といい、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきました。
平敦盛遺愛の青葉の笛や弁慶の鐘、さらに敦盛首塚や義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡があり「源平ゆかりの古刹」として全国的に知られています。
古来より源平の浪漫を偲んで訪れる文人墨客も数多く、広い境内に句碑・歌碑が点在しており、松尾芭蕉、正岡子規の句碑などがあります。
須磨寺(兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4-6-8)
須磨寺略歴縁起(寺蔵)によれば、兵庫区和田岬の海中より出現し給える聖観世音菩薩像を安置するために、淳和天皇の勅命により、兵庫区会下山に、恵偈山北峰寺が建立されたとされています。
後に、仁和二年(886年)に、光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が現在の地に上野山福祥寺を建立し、北峰寺より聖観世音菩薩像を遷し、本尊としてお祀りしたのが、当山の開基と伝えられています。
境内にある「源平の庭」には、平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの様子を再現した像があります。
さらに、境内にある宝物館では、青葉の笛などの平敦盛や源平ゆかりの宝物や、須磨寺の歴史的宝物が展示されており、見ることができます。
是非、多くの文人たちが源平の争いに思いを馳せた須磨寺を訪れ、源平の悲しい歴史を見つめてきた須磨の風に触れてみてください。
『平家物語』を知ると、様々な日本の古典文学、古典芸能をさらに楽しむことができます。