三種の神器~天皇である証~

天孫降臨

ニニギノミコトの天孫降臨

 

三種の神器は、日本神話において、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が天孫降臨する際、アマテラスオオミカミ(古事記:天照大神、日本書紀:天照大御神)により授けられたとされる三種類の宝器、鏡、剣、玉(璽)の総称であり、また、これと同一とされる、或いはなぞらえている、日本の歴代天皇が古代より伝世してきた三種類の神器のことをいいます。

  • 八咫鏡(やたのかがみ)(古事記では八尺鏡)
  • 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙剣(くさなぎのつるぎ))
  • 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

 

※天孫降臨:葦原中国(あしはらのなかつくに)、すなわち日本列島に降臨すること。

 

三種の神器が意味するもの

古代日本において、鏡・剣・玉の三種の組み合わせは支配者の象徴であり、単に皇室に伝承される儀式的なものではありません。実際、有力豪族の古墳からも、鏡、剣、玉が発掘されています。

三種の神器の場合、支配者、特に日本国(日本国という概念は明治時代以降からですが)を支配する支配者としての象徴として、歴代天皇により継承されたもの、ということになります。

このように、王権などを象徴し、それを持つことで正当な王であることを象徴する物のことをレガリア(ラテン語:regalia、英語:regalia)といい、日本の他にも、イギリス王室やタイ王室にも存在し、現在も継承されています。

では、なぜ日本では、鏡、剣、玉の三種類の組み合わせが支配者の象徴として継承されてきたのでしょうか。

これには諸説ありますが、有名なのが以下のものです。

北畠親房の説

北畠親房(きたばたけ ちかふさ:1293年-1354年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿であり、歴史家です。

北畠は、その著『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)に、「三種の神器世に伝ふること、日月星の天にあるにおなじ、鏡は日の体なり、玉は月の精なり、剣は星の気なり、ふかき習ひあるべきにや」と記しています。つまり、世に日・月・星があるように、三種の神器の鏡・玉・剣は、宇宙の真理を表しているというのです。そしてそれに続き、鏡は正直、玉は慈悲、剣は智慧の徳を表しているとしています。

さらに、著『東家秘』(とうかひでん)には『中庸』に説かれる三達徳に配し、鏡=智、玉=仁、剣=勇、としています。

※「中庸」は、儒教における四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』の4つの書物を総称したもの)の一つであり、その中心的概念の一つ。

※「三達徳」とは、儒教で、いかなる場合でも尊ばれる三つの徳のことであり、すなわち、智、仁、勇のこと。

一条兼良の説

一条兼良(いちじょう かねよし:1402-1481)は、室町時代の公卿であり、古典学者です。

一条は、その著『日本書紀纂疏』(にほんしょきさんそ)において、三達徳および三因仏性に配し、鏡=知の用、玉=仁の徳、剣=勇の義としています。

※「三因仏性」とは、仏教にいう「仏となる可能性(仏性)」についての認識の一つで、主に天台宗において説かれる概念。正因、了因、縁因の仏性のことをいい、正因は先天的に備わったもの、了因は理を表す知恵、縁因は全ての善行のもととなるもののことで、この三因により成仏できると説くもの。

熊沢蕃山の説

熊沢蕃山(くまざわ ばんざん:1619年-1691年)は、江戸時代初期の陽明学者です。

熊沢は、その著『集義和書』(しゅうぎわしょ)に、「三種の神器は則ち神代の教典也 -略- 器を作って象(かたち)とす。玉を以て仁の象とし、鏡を以て智の象とし、剣を以て勇の象としたまへり」と説いています。

田中智學の説

田中智學(たなか ちがく、1861年-1939年)は、第二次世界大戦前の宗教家です、「鏡=天照大神=知徳、玉=月読尊=仁慈、剣=素戔嗚尊=武勇」と解釈しています。

ちなみに、田中智學氏の説ですが、確かに納得できる部分はあります。

天照大神月読尊素戔嗚尊は、『古事記』において黄泉の国から戻った伊邪那岐命(イザナギノミコト)が、黄泉の汚れを落としたとき、最後に生まれ落ちた三柱の神々とされています。イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから、三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)、三貴神(さんきしん)などと呼ばれています。

アマテラスは太陽、ツクヨミは月、そしてスナノオは海を司る神とされ、それは、日本という国を支える三大要素でもあります。三種の神器をそれぞれにあてはめ、それを歴代天皇が継承していく、という考えもおもしろいかもしれません。

天照大神(アマテラスオオミカミ)

イザナギの左目から生まれたとされる女神で、本来は男神だったとする説もあります。一般的に太陽神とされています。

後述しますが、三種の神器のうち、鏡、玉は、アマテラスの岩戸隠れのときに作られたとされています。

月読命(ツクヨミノミコト)

イザナギの右目から生まれたとされる神で、性別は記載してありませんが、男神とされることが多い神様です。一般的に、夜を統べる月神とされています。

現在、日本は太陽の動きで暦をみる「太陽暦」を採用していますが、明治5年(1872年)に政府が太陽暦に切替える旨の太政官布告を発するまでは、月の満ち欠けで1ヶ月を定める太陽太陰暦を採用していました。

新月を「(さく)」とし、それを月のはじめの1日とします。ちなみに、「朔」という漢字一文字だけでも「ついたち」と読みます。

そして、満月を「(ぼう)」とし、月齢は13.8から15.8であることが多いことから、おおよそ新月から満月になるまでを15日とし、満月の夜を「十五夜」と呼びます。

そして、また15日かけて新月に戻るため、一ヶ月が30日となります。

現在でも、神社には、毎月1日にお参りをする「朔日(ついたち)参り」の風習を残ります。

月読は、「月を読む」ことから暦と結びつけ、「暦や月齢を数える」ことを意味し、暦を司る神格であろうとする解釈もあります。

須佐之男命(スサノオノミコト)

イザナギの鼻から生まれたとされる男神です。一般的に海原の神とされています。

三種の神器のうちの剣は、スサノオがヤマタノオロチを退治したとき、その体内から出てきた刀で、それをアマテラスに献上したものとされています。

 

 天孫降臨と三つの神勅(三大神勅)

天孫降臨の際、ニニギアマテラスから、八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉を受け取ると同時に、三つの神勅(三大神勅)を賜ります。

  • 天壌無窮の神勅」(てんじょうむきゅうのしんちょく)

    豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国(くに)は、是(これ)吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)りなかるべし。(『日本書紀』神代紀、第九段、一書第一)

    豊に生い茂るあの瑞々しい聖なる国(日本)は、これ我が子孫が代々治めるべき地である。我が子よ、行って治めなさい。無事でいるように。お前達のその王たる御位は、天地と共に永遠に栄える事でありましょう。

  • 宝鏡奉斎の神勅」(ほうきょうほうさいのしんちょく)

    吾(あ)が児(みこ)、此(こ)の宝鏡(たからのかがみ)を視(み)まさむこと、当(まさ)に吾(あ)を視(み)るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)をひとつにし、以(もっ)て斎鏡(いはひのかがみ)と為(な)すべし。(『日本書紀』神代紀、第九段、一書第二)

    我が子よ、この鏡をご覧になる事は、私を見るのと同じであると考えなさい。この鏡をお前の住む宮殿内に安置し、お祭りをなすときの神鏡にしなさい。

  • 斎庭稲穂の神勅」(ゆにわいなほのしんちょく)

    吾(あ)が高天原(たかまのはら)にきこしめす斎庭(ゆには)の穂(いなほ)を以(もっ)て、また吾(あ)が児(みこ)にまかせまつるべし。(『日本書紀』神代紀、第九段、一書第二)

    高天原で育てられている神聖な稲穂を我が子に与えます。その稲穂を撒き、地上で稲作をしなさい。

三種の神器は常に天皇の居住空間にあった

「宝鏡奉斎の神勅」で、アマテラスはニニギに「この鏡をお前の住む宮殿内に安置し、お祭りをなすときの神鏡にしなさい」と求めていますが、この神勅にならい、八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉は宮中に祀られていました(同殿同床)。

そして、代々の天皇により皇位の証として継承され、天皇が一日以上の行事にお出かけになる際には、剣璽御同座(けんじごどうざ)といい、剣と曲玉が陛下と共に渡御(とぎょ)されます。

霊異の高さを畏れ、鏡と剣を宮中の外で祀り、宮中には形代を祀ることに

古語拾遺』によると、第十代崇神天皇のとき、三種の神器を一つの場所にまとめて祀るのはあまりに神威が強すぎるとして、宮中とは別の場所で祀ることとし、鏡と剣を笠縫邑(かさぬいむら:現在の奈良県桜井市三輪)へ移したとされています。

しかし、アマテラスの神勅により、鏡はニニギの子孫である王が住む宮殿内で祀る必要があります。

そこで、鏡と剣の形代(かたしろ:神霊が依り憑く依り代の一種)を作り、これを宮中に祀ることとしました。

宮中の外に持ち出された鏡と剣は、第十一代垂仁天皇の御代にヤマトヒメノミコト(古事記:倭姫命、日本書紀:倭比売命)に託され、笠縫邑から宇陀(奈良県宇陀市)へ、その後、近江、美濃と巡り、伊勢の国に来た時、アマテラスから「ここにいたい」とのお言葉があり、そこに祠を建ててお祀りすることになりました。
これが伊勢神宮の始まりとされています。

これ以降、鏡は伊勢神宮で現在も祀られています。

 

一方、剣は、第十二代景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルノミコト(日本書紀:日本武尊、古事記:倭建命)に託されます。ちなみに、ヤマトヒメはヤマトタケルの叔母にあたります。

『日本書紀』では、ヤマトタケルが駿河の国に来たとき、野中で火攻めに遭います。そのとき、天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い炎を退けヤマトタケルを助けたとし、ヤマトタケルは剣を「草薙剣」と名付け、そしてこの出来事が「焼津」という地名の起源であるとしています。

『古事記』には「天叢雲剣」という表記はなく、天孫降臨のときから「草那藝剣」と記されています。その後、ヤマトタケルがヤマトヒメから剣を託される物語は『日本書紀』と同じですが、ヤマトタケルが火攻めに遭ったのは、相模の国とされ、ヤマトタケル本人が草那藝剣で草を刈り掃い炎を退けます。そして、これが焼遣(やきづ=焼津)という地名の起源であるとしています。

その後、ヤマトタケルは、伊勢の神剣である草那藝剣を妻のミヤズヒメ(古事記:美夜受比売、日本書紀:宮簀媛)に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)の神を素手で討ち取ろうとして出立する。

この後のヤマトタケルの不幸は、神剣を手放してしまったためとする考え方もあります。

そして、ヤマトタケルが能煩野(三重県亀山市)で亡くなった後、剣はミヤズヒメと尾張氏が尾張国で祀り続け、これが熱田神宮の起源であるとされています。

そしてこれ以降、剣は熱田神宮で現在も祀られています。

 

歴史の中で、何度か三種の神器のうちの鏡と剣が失われていますが、これは全て宮中で祀られていた形代の方であり、ニニギがアマテラスから託された御神体である鏡と剣は、現在も伊勢神宮、熱田神宮で祀られ続けています。

ただし、天皇、皇族、そして神官も、三種の神器を見ることは許されていません。

※現在、草薙剣は熱田神宮に、八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、それぞれ神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居・吹上御所の「剣璽の間」に安置されています。

※崇神天皇(開化天皇10年 – 崇神天皇68年12月5日):『日本書紀』での名は御間城入彦五十瓊殖天皇。祭祀、軍事、内政において国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇で、実在した可能性のある最初の天皇と考えられています。

 

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八咫鏡(やたのかがみ)

八咫鏡(やたのかがみ)は、『古事記』では八尺鏡と記されています。
また、『日本書紀』には、別の名を真経津鏡(まふつの かがみ)ともいうと記されています。

八咫鏡は、所有者である天皇陛下さえも見ることが許されていませんが、明治天皇が伊勢神宮でご覧になったという話が残されています。ただ、明治天皇は八咫鏡の姿について語ることはなかったとされ、八咫鏡がどのような姿をしているのかはわかりません。

一説によれば、幾多の災難の末、鏡の姿を留めていないのでは、ともいわれていますが、誰も見たことがないので、わかりようもありません。

八咫鏡の起源

記紀神話によると、アマテラスが天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際に作られたとされています。

アマテラスの岩戸隠れにより、世界が闇に包まれ、困った八百万の神々は「天の安河」の川原に集まり、対応を相談します。

このとき、『古事記』では、イシコリドメノミコト(伊斯許理度売命)に「天の安河」の川上にある岩と鉱山の鉄とで八咫鏡を作らせタマノオヤノミコト(玉祖命)に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせたとされています。

一方、『日本書紀』では、八尺瓊勾玉を作ったのは「玉造部の遠祖・トヨタマノカミ(豊玉神)」(第二の一書)、「玉作の遠祖、イザナギノミコト(伊弉諾尊)の児・アメノアカルタマノミコト(天明玉命)」(第三の一書)とされています。しかし、どちらも「玉造部の祖」としていることから、『古事記』にいうタマノオヤノミコト(玉祖命)と同神と考えられています

そして、賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八尺鏡と布帛をかけ、フトダマノミコト(古事記:布刀玉命、日本書紀:太玉命)が御幣として奉げ持ち、アメノコヤネノミコト(古事記:天児屋命、日本書紀:天児屋根命)が祝詞を唱え、アメノタヂカラオノカミ(古事記:天手力男神、日本書紀:天手力雄神)が岩戸の脇に隠れ、アメノウズメノミコト(古事記:天宇受賣命、日本書紀:天鈿女命)が天岩戸の前で踊ります。

神々が楽しそうな様子を不審に思ったアマテラスは、天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭り世界は闇になっているというのに、何故アメノウズメは楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問います。

アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、皆喜んでいるのです」と答えると同時に、アメノコヤネとフトダマが、アマテラスに鏡を差し出します。

鏡に写る自分の姿を「貴い神」だと思ったアマテラスが、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けたとき、隠れていたアメノタヂカラオがアマテラスの手を取り岩戸の外へ引きずり出します。

そして、高天原、葦原中国に光が戻ったというのが、岩戸隠れの神話です。

八咫鏡の名称、姿について

三種の神器は、何人も見ることを許されていないため、どのような姿をしているのかは、想像するしかありません。

まず名称に使われている「八咫」という言葉ですが、一般に「八咫」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい、多いという形容であり具体的な数値ではないというのが通説です。

しかし一方で、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」とする説もあります。

八咫鏡を考察する上で貴重なのが、福岡県糸島市にある平原遺跡(弥生時代後期の遺跡と考えられる)から出土した、直径46.5センチメートルの大型の青銅鏡、平原遺跡出土鏡で、発掘した原田大六氏は、その文様から「内行花文八葉鏡」と名付けています。ちなみに、この鏡は文化庁により国宝に指定されています。

平原遺跡出土  変形内行花文八葉鏡(別称:大型内行花文鏡) (複製)
伊都国歴史博物館展示
Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.

 

内行花文鏡」というのは鏡の種類の一つで、正式名称は「連弧文鏡」といいます。ただ、日本ではその文様を花弁に見立て、「内行花文鏡」と呼んでいます。

鏡背中央の鈕座の周りに、基本8つの連弧を内向きに一巡させた文様を有する鏡で、稀に連弧が11個、9個、6個、5個の鏡も存在します。

鈕座はこうもり型、四葉型、円型などがあり、平原遺跡から出土した鏡は八葉型です。

平原遺跡から出土した鏡は通常の内行花文鏡とは異なり、鏡背に銘字はなく、文様のみの銅鏡で、その文様は、鏡背中心の鈕を囲んで八葉形の鈕座があり、その周囲に8個の内行花文、9本の同心円、外縁部が配されています。

平原遺跡出土の「内行花文八葉鏡」は直径46.5センチメートルの大型の鏡ですが、これは漢の時代の寸法でいうと「二尺」となり、この直径では円周が「八咫」となります。

発掘した原田大六氏は、この円周「八咫」と、『神道五部書』の『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と図象が類似すること、また『延喜式』伊勢大神宮式や『皇太神宮儀式帳』において鏡を納める桶式の内径が「一尺六寸三分」(約49センチ)であることから、この銅鏡を伊勢神宮の御神体八咫鏡と同型の鏡であると主張しています。

これが、平原遺跡出土の「内行花文八葉鏡」が、三種の神器のイメージ写真として使用されることが多い理由です。

 

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも称される剣の正式名称で、『古事記』では「草那藝之大刀」と記されています。

天叢雲剣の起源

天叢雲剣は、記紀神話において、スサノオノミコト(『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、速須佐之男命、須佐之男命、『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊)が出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時、大蛇の体内(尾)から見つかったとされる神剣です。

天叢雲剣という名称について、『日本書紀』神代紀上第八段本文の注に、「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気(くも)が掛かっていたため、かく名づけたか。日本武皇子(ヤマトタケル)に至りて、名を改めて草薙劒と曰ふ」とあります。

ヤマタノオロチ

 

剣を手に取ったスサノオは「是神(あや)しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安(お)けらむや(これは不思議で霊妙な剣だ。どうして自分の物にできようか)」(『日本書紀』第八段本文)と言い、天叢雲剣を高天原のアマテラスに献上します。

ちなみに、『古事記』には「天叢雲剣」という表記はなく、ニニギの天孫降臨のときから「草那藝の太刀」としています。

<古事記>

速須佐之男命が大蛇の中ほどの尾を斬った時、十拳之剣の刃が少し欠けてしまった。 怪しいと思い、刀の切先で大蛇を刺し割ってみると、一振りの、都牟刈の太刀(つむがりのたち=非常に鋭い太刀)があった。 速須佐之男命は大蛇の中から出てきた大刀を取り、不思議なものだと思い、天照大御神に事情を説明し、献上した。 これがすなわち、後世に云う「草那藝の太刀」である。

 

その後、天叢雲剣は、天孫降臨に際しアマテラスより他の神器と共にニニギに託され、再び地上に戻り、同床共殿として宮中に祀られますが、第十代崇神天皇のとき、神威が強すぎるとして、鏡と剣は形代を作り宮中で祀り、御神体の方は笠縫邑(かさぬいむら:現在の奈良県桜井市三輪)を経由し、伊勢神宮で祀られることとなります。

そして、剣は第十二代景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメは、東征に向かうヤマトタケルノミコト(日本書紀:日本武尊、古事記:倭建命)に託され、その後ヤマトタケルの妻、ミヤズヒメに預けられ、ヤマトタケルの死後は熱田神宮で現在に至るまで祀られています。

一方、宮中に祀られていた形代としての剣は、1185年の壇ノ浦の戦いのとき、第八十一代安徳天皇と共に関門海峡に沈み、その後見つけることはできませんでした。

その後、伊勢神宮から献上された剣を「草薙剣」の形代とし、現在まで宮中で祀っています。

 

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は「八坂瓊曲玉」とも書きます。

(じ)」と呼ぶこともあり、三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽(けんじ)」と称されています。

 

前述しましたが、天皇が一日以上の行事にお出かけになる際には、剣璽御同座(けんじごどうざ)といい、剣と曲玉が陛下と共に渡御(とぎょ)されます。

「日(陽)」を表す八咫鏡に対して「月(陰)」を表しているのではないかという説もあります。

八尺瓊勾玉の起源

記紀神話によると、八尺瓊勾玉は、アマテラスの岩戸隠れのとき、八咫鏡と同時に作られたとされています。

詳細は「八咫鏡の起源」に記載しておりますので、そちらを参照してください。

八尺瓊勾玉の姿

八尺瓊勾玉は大きな玉(ぎょく)で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされています。

また、「八尺」は単に大きい(あるいは長い)という意味であるとも、「弥栄」(いやさか)が転じたものとする説もあります。

「瓊」は赤色の玉のことであり、これは瑪瑙(メノウ)のことであるともされています。

しかし、「三種の神器」は所有者である天皇ですら見ることが許されていないため、実際どのような姿をしているのかは、想像するしかありません。

三種の神器としての八尺瓊勾玉

八尺瓊勾玉は、八咫鏡、天叢雲剣とは少し「三種の神器」としての考え方が異なるようです。

養老令』の神祇令に「およそ践祚の日、忌部、神璽の鏡剣(かがみたち)を上(たてまつ)れ」と記述があり、『日本書紀』には、690年(持統天皇4年)の持統天皇即位を初めとして、忌部氏が「神璽の剣鏡」を奉ったとあります。

これらの記述に、険、剣はありますが、玉という言葉がありません。

これには、以下の三通りの考え方があります。

「三種の神器」として問題ないとする諸説

  • 玉も神器の一つだったが、身に着ける宝であり、献上される品ではなかった
  • 漢文特有の表現上の問題であって実際には鏡剣玉の三つをさしている
    • 「鏡剣玉」を略して二字で代表させている
    • 「神璽」が玉のことをさしている(『日本書紀』の原文では「神璽剣鏡」であり「神璽・剣・鏡」と三つに読むことが可能である)
    • 「神璽」が神器全体の意と、鏡剣に対して玉をさす意を兼ねている

鏡剣と玉との間に落差や経緯の違いを想定する諸説

  • 玉は神器としての重要性が劣り、宝としては鏡剣より軽いと考えられていた
  • 本来もともと三種であり、天智朝に定められた即位儀礼までは三種であったがなぜか『飛鳥浄御原令』で鏡剣の二種に改められその後またすぐ三種に戻った

三種の神器と称するのは後世の創作された物語の上でのことにすぎず、神器の真実は鏡剣の「二種の神器」だったとする説

 

ただ、いずれにしても、現在は「三種の神器」の一つとして歴代天皇により継承されています。

八尺瓊勾玉の所在

八尺瓊勾玉も、鏡、剣と共に、ニニギの天孫降臨の際アマテラスより託されました。

奈良時代には後宮の蔵司が保管していましたが、平安時代ころからは、剣(の形代)と共に櫃に入れて天皇の身辺に置かれたとされています。

平安時代末期の寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで二位の尼安徳天皇を抱き入水したとき、玉・剣と共に(『平家物語』によると「神璽を脇に挟み宝剣を腰に差し」)沈みますが、玉は箱に入っていたため、箱ごと浮かび上がり、源義経に回収されたとされています。また、一説には、一度失われたものの、源頼朝の命を受けた漁師の岩松与三が、網で鏡と玉を引き揚げたとする説もあります。

室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変の際、後南朝勢力によって宝剣とともに宮中から奪われ、宝剣は翌日発見されたが神璽は大和国奥吉野へ持ち去られ、その後約15年間、後南朝勢力が保有したとされています。

長禄元年(1457年)12月に赤松氏の遺臣らが奥吉野の後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王忠義王の兄弟を討ち、神璽を持ち去ろうとしたが失敗、翌長禄2年(1458年)3月末、赤松遺臣らは自天王の母の屋敷を襲い、神璽を奪い去る事に成功します(長禄の変)。その後、神璽は大和国越智氏の在所に移された後、同年8月30日、宮中に戻されたとされています。

1989年 (昭和64年) 1月7日に第125代天皇上皇明仁が践祚した後、明仁の神器として皇居にある御所の剣璽の間に、剣(形代)とともに保管されていましたが、2019年 (令和元年)5月1日の第126代天皇徳仁の践祚に伴い当分の間赤坂御所で剣(形代)とともに保管されることになりました。

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