1554年2月12日、ロンドン塔屋外にあるタワー・グリーンには大勢の人が集まっていた。ここは、今までいったいどれだけの血を吸ってきたことだろう。
今ここに毅然と立つ一人の若い女性の姿がある。
名をジェーン・グレイ(Jane Grey)という。
ジェーンはひざまずき、「旧約聖書詩篇第51篇」を最後まで熱心に朗読した。そして静かに立ち上がると、今までお世話になった2人の侍女に、手袋とハンカチ、そして祈祷書を渡した。
そのときが近づいていた。
纏っていたガウンを外して侍女に渡し、かわりにハンカチを受け取る。慣例に従い処刑執行人がジェーンに許しを求めるのに、「喜んであなたを許しましょう」と答えると、執行人は彼女に藁の上に進むよう促した。
「どうぞ、早く終わらしてくださいね」
恐怖を抑えながら指示された場所に進み、受け取ったハンカチで目を覆う。途端、先ほどまでぎりぎりに保っていた毅然さは一瞬失われ、ジェーンは狼狽えた。
「私はいったいどうればいいの?」
小さな体に収まりきらない恐怖がついに溢れ出す。 傍らに控えていた司祭がジェーンの身体を支え、行き場を失っていた手を断頭台へと導く。
湿った、柔らかくも堅くもない感触が指先に触れた。
膝を折り、すがるようにしてその湿気を帯びた物質の感触を探っていると、指は中央にある窪みにたどりついた。
もう逃げられない。本当に終わるのだ。
ジェーンは覚悟を決め、その湿った窪みをそっと撫でると、そこに首を預けた。
「主よ、あなたの御手にわが霊を委ねます」
こうして、イングランド史上初の女王は、わずか9日間の在位の後その命を終えた。このとき、ジェーン・グレイはわずか16歳であった。
PAUL DELAROCHE – Ejecución de Lady Jane Grey (National Gallery de Londres, 1834)
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ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche, 1797年7月17日 – 1856年11月4日)によって1833年に描かれた絵画「レディー・ジェーン・グレイの処刑」(The Execution of Lady Jane Grey)は、正にこの瞬間を描いたものです。
死の直前にあるというのに、ジェーンの頬はバラ色で、若々しく、白くふっくらとした肌は瑞々しい輝きを放っています。
およそ死とは対極にあるその姿に、この絵画を見る人たちは、ジェーンの死の理不尽さ、強制的に生を終わらせる死刑というものの残酷さ、そして、それを行う人間の恐ろしさを感じるのかもしれません。
背後で放心状態にある次女の手元には、先ほどジェーンから手渡されたガウンと宝石があります。
祭司に誘導されるジェーンの左手の薬指には、結婚指輪がはめられています。
ただ、実際のジェーン・グレイの処刑は、ロンドン塔屋外にあるタワー・グリーンと呼ばれる広場で公開で行われており、また、衣装も黒であったといわれています。
ちなみに、この絵画は、中野京子氏の大ベストセラー「怖い絵 泣く女篇」(角川文庫)でも紹介され、また、日本でも実物公開されていますので、ご存知の方も多いと思います。(画像をクリックするとAmazonホームページが開きます)
また、夏目漱石がロンドンに留学しているとき、ナショナルギャラリーでこの絵画を鑑賞して非常な衝撃と感銘を受け、それを小説『倫敦塔』に記しことは有名です。(画像をクリックするとAmazonホームページが開きます)
わずか9日間の女王(Nine-Day Queen)――イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(Queen Jane、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んでいましたが、今日のイギリス王室は、ジェーン・グレイをテューダー朝第4代の女王として、公式に歴代君主の一人と数えています。
Tudor rose(テューダー ローズ)
イングランドの伝統的な花の紋で、現在のイギリスでも広く使用されており、その起源はかの有名な「薔薇戦争」にある。
ヘンリー7世がリチャード3世を破りイングランド王位を勝ちとったとき、ランカスター家(赤薔薇の紋)とヨーク家(白薔薇の紋)の間の薔薇戦争は終わりを迎えた。ヘンリー7世は、いにしえのウェールズの君主の血を引くエドマンド・テューダーを父とし、ランカスター家の血を引くマーガレット・ボーフォートを母とするが、さらにヨーク家のエリザベスと結婚することで、全ての勢力をまとめあげた。結婚に伴い、ヘンリー7世はヨーク家の白薔薇とランカスター家の赤薔薇を結合したテューダー・ローズの紋を採用した。
ジェーン・グレイ(Jane Gray)の生涯 ~出生~
ジェーンは、1537年10月12日に生まれたとされますが、日にちは定かではありません。
父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ(Henry Grey, 1st Duke of Suffolk, 3rd Marquess of Dorset, 1517年1月17日 – 1554年2月23日)、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン(Lady Frances Brandon, 1517年7月16日 – 1559年11月20日)で、母方の祖母がヘンリー8世(Henry VIII, 1491年6月28日 – 1547年1月28日)の妹でプロテスタントのメアリー・テューダー(Mary Tudor, 1496年3月18日 – 1533年6月25日)にあたります。
King Henry VII family tree right up to the end of the families reign.
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家系図を見ると、グレイ家が王位継承にとても近い一族であることがわかります。
ちなみに、「ブラッディー・メアリー」(Bloddy Mary)として有名なのは、ヘンリー8世とその最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれたメアリー1世であり、ジェーンの祖母メアリー・テューダではありません。
しかし、キャサリン・オブ・アラゴンとメアリー・テューダは親友であり、また、メアリー1世の名も、メアリー・テューダからいただいたものなので、ジェーン・グレイとメアリー1世はとても近い関係にあったといえます。
この頃のイギリスの歴史は、ヘンリーやアン、トーマス、ジェーン、メアリー、キャサリン等、同じ名前が同時期に何人も出てきて、わかりにくいんですよね。
16世紀イングランド王国を舞台に、国王ヘンリー8世の波乱に満ちた後半生を描いており、エミー賞は2007年に衣装賞とメインテーマ音楽賞、2008年に衣装賞、2009年に撮影賞、2010年に美術賞と衣装賞を受賞しており、ゴールデンリール賞は2010年に音響編集賞を受賞しています。
このドラマ、ヘンリー8世はかっこいいし、女性は奇麗だし、衣装や景色、建物も美しく、そして何より内容がとてもおもしろい作品です。
美しいイギリスの風景と宮殿を背景に、人々の様々な思惑や本音、愛、憎しみ、嫉妬、悲哀等、様々な感情が紡ぎ出していく歴史という物語を、ヘンリー8世という人物を中心に描き上げていくこのドラマは、知らず知らずにどんどんと引き込まれていくストーリー展開となっており、まるでその世界に自分もいるかのように、自然とこの時代の背景が頭に入ってきます。
ちなみにこれは、2009年からAXNミステリーチャンネルで放送されており、私がドハマリした作品でもあります。全38話と大作ですが、一気見まちがいなしです。
ヘンリー8世は、ジェーン・グレイの人生にも大きな関わりのある人物の一人でもあります。
ジェーン・グレイ(Jane Gray)の生涯 ~幼少期~
ジェーン・グレイは、ロンドンの東、レスターから約8キロの場所にあるブラッドゲート(Bradgate)で生まれたとされています。
2015年から5カ年計画で行われている発掘調査では、現存するレンガ造りの建物跡の下から石造りの建築物が発見されており、これがジェーン・グレイの生家の跡である可能性があるとして、現在も調査が進められています。
Bradgate House ruins(ブラッドゲート・ハウスの遺構)
Bradgate House, near to Newton Linford, Leicestershire, Great Britain. Looking from the east wing towards the west wing. In its 17th century heyday, the east wing was used as family living quarters whereas the west wing was opened up for important guests including William III in 1696.
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豊かな自然の中で、ジェーンは両親の愛情を受け、のびのびと育ちました。
幼い頃から読み書きや聖書、音楽ダンス、乗馬、裁縫などの教育を受け、10歳になる頃にはラテン語やフランス語、イタリア語など欧州主要国の言語をほぼマスターしていたといわれています。
A 1753 engraving of Lady Jane Grey, queen of England from 10th July 1553 to 19th July 1553.
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豊かな自然の中、両親の愛情を受け、思う存分勉学に励む――ジェーンの幼少期は、同じ王位継承者でも、生まれたときから権力闘争の中にあり、父であるヘンリー8世から充分な愛情を受けることができず、さらに命の危険まで感じながら生きてきたメアリー1世、エリザベス1世に比べると、幸せなものだったといえるのかもしれません。
ジェーン・グレイ(Jane Gray)の生涯 ~ヘンリー8世の死と王位継承問題~
1545年、ヘンリー8世が崩御すると、ジェーンと同い年のエドワード6世(Edward VI)が、わずか9歳で即位します。
Edward VI of England
Attributed to William Scrots (1537–1554)
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ヘンリー8世は、生涯6人の王妃を迎えていますが、子供は、最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれたメアリー1世、2番目の王妃アン・ブーリン(Anne Boleyn)との間に生まれたエリザベス1世、そして、3番目の王妃ジェーン・シーモア(Jane Seymour)との間に生まれたエドワード6世の3人であり、子供の数には恵まれていませんでした。そして、唯一の男子であるエドワード6世は、幼い頃より体の弱い少年でした。
長くは続かないであろうエドワード6世の治世――次の王はいったい誰か――エドワード6世が存命であるにも関わらず、様々な思惑と画策が陰で駆け巡ります。
ヘンリー8世は生前、エドワード6世とスコットランド女王メアリー・ステュアート(Mary Stuart)とを結婚させ、スコットランドをイングランド管理下に置く構想を持っており、ヘンリー8世の死後、エドワード・シーモア( Edward Seymour)がこれを引き継ぎ、スコットランドに攻め込んでメアリーを連れ去ろうとします。しかし1548年、メアリーの母でスコットランドの摂政皇太后であったメアリー・オブ・ギーズ(Mary of Guise
やがて1552年、エドワード・シーモアが反逆罪で処刑されると、ノーサンバランド公ジョン・ダドリー(John Dudley)が実権を握ります。
John Dudley, Duke of Northumberland (1502 – 1553)
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エドワード6世の病状が悪化すると、その死期を悟ったジョン・ダドリーは、ヘンリー7世の曽孫にあたるジェーン・グレイを次の女王とすることを計画し、1553年5月21日、自分の六男ギルフォード(Guildford (Guilford) Dudley)と結婚させます。
ヘンリー8世が1543年に制定した法律では、継承順位はエドワードの次は、メアリー(後のメアリー1世)、そしてエリザベス(後のエリザベス1世)なのですが、熱狂的なカトリック信者であるメアリーが即位すると、プロテスタント制作を遂行するジョン・ダドリーの立場は、とても危険なものとなるからです。
Lord Guildford Dudley, husband of Lady Jane Grey. Painted in the 19th century as part of a series.
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ジョン・ダドリーは、病床にあるエドワード6世に、ジェーン・グレイの即位がプロテスタント信仰を守る唯一の方法であると説き伏せ、ジェーンを次期女王に指名する遺言を作成させます。エドワード6世もプロテスタントを信仰ていたため、カトリックを信仰するメアリーとはあまり良い関係ではなかったようです。
やがてエドワード6世が1553年7月6日に15歳で夭折すると、枢密院は筋書きどおりジェーン・グレイを女王に推戴します。
The Dukes of Northumberland and Suffolk praying Lady Jane Grey to accept the Crown
(ジェーン・グレイに王冠を受け入れるよう懇願するノーサンバランド公とサフォーク公ヘンリー・グレイ)
by Giovanni Battista Cipriani (1727–1785)
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ジェーン・グレイ(Jane Gray)の生涯 ~9日間の女王(Nine-Day Queen)~
枢密院がジェーン・グレイに推戴すると、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーはメアリーの身柄を拘束しようとしますが、身の危険を察知したメアリーは、ノーフォーク公トーマス・ハワード(Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk, KG, PC)に匿われ、ロンドンを脱出します。
そして7月10日、ジェーンがロンドン塔に入城し、その王位継承が公に宣言されます。公式、非公式を別にして、イングランドで初めて女王が誕生した瞬間です。
The Streatham Portrait of Lady Jane Grey.
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一方、メアリーも13日にノリッジで即位を宣言、挙兵します。ヘンリー8世が定めた法律では、エドワード6世の次の正当な王位継承者は、メアリーであるはずなのです。
メアリーの元には多くの人が集まり、プロテスタント色が強いはずの南東部の人々までメアリー支持に動きます。そして民衆蜂起となってロンドンに進軍します。
ノーサンバランド公はこれを鎮圧すべく傭兵部隊を率いてロンドンを出陣ますが、部隊の戦意は低く、脱走兵が相次ぎ、とても戦闘できる状態ではありませんでした。
また、公爵がロンドンを離れて間もなく、ジェーン擁立を支持していたはずの枢密顧問官たちが続々とメアリー支持に寝返り、最後までジェーンへの忠誠を貫いたのはジェーンの父である初代サフォーク公ヘンリー・グレイとトマス・クランマーだけという状況だったといいます。
やがて、19日には枢密院も一転メアリー支持を表明、ロンドンに入ったメアリーは改めて即位を宣言します。
戦況を絶望視したノーサンバランド公はメアリー女王の即位を認め、7月末にケンブリッジでメアリー軍に投降、ノーサンバランド公とその子ギルフォードは、ジェーン・グレイとともに身柄を拘束されます。
メアリー支持に貴族や民衆が傾いたのは、ヘンリー8世の遺言では王位継承権がエドワード、メアリー、エリザベスの順にあったのにもかかわらず、これを継いだエドワード6世の遺言ではこの異母姉2人を差し置いて、プロテスタントであるという理由で従姪のジェーンが後継者に指名されていたことから、それがエドワード6世の真意であることを疑い、ジェーンがノーサンバランド公の傀儡になることを危惧したためといわれています。エドワード6世の遺言の真偽は別として、少なくともそれを理由に民衆の蜂起を煽ったメアリーの作戦勝ちであり、彼女は「イングランドで初めて広く国民に支持された女王」となりました。
Portrait of Mary I (即位前)(1544)
by Master John
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ジェーン・グレイ(Jane Gray)の生涯 ~ロンドン塔への幽閉~
ノーサンバランド公は投降後、大逆罪の容疑で裁判にかけられます。彼はカトリックに改宗することで延命を図ろうとしますが、1553年8月22日、ロンドン塔のタワー・ヒル刑場において処刑されます。
このとき、メアリー1世には、ジェーンとギルフォードを処刑にする気持ちはありませんでした。
1554年1月、母方からスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王家の血を引くメアリー1世は、結婚の相手に従兄カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)と結婚することを発表します。
この結婚発表に、イングランドでは不安が広がります。
カトリックの宗主国のようなスペイン王太子とメアリー1世との結婚は、イングランドの人々に、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまうのではないか、イングランドがスペインの属国となってしまうのではないかという危機感を抱かせるものでした。
メアリー1世が結婚を発表して間もなく、1554年1月、ワイアットの乱が起きます。これは、メアリー1世とスペインの王子フェリペとの結婚に抗議する反乱で、その指導者の一人、トマス・ワイアット(Sir Thomas Wyatt)の名をとり、「ワイアットの乱」と呼ばれています。この反乱には、メアリー1世を廃位させ、プロテスタントであるエリザベス(後のエリザベス1世)を王位に即けさせようとする狙いもありました。
しかしこの反乱は、計画の途中でメアリー1世に知られ、準備不足のまま挙兵するところとなり、わずか一週間ほどで鎮圧、トマス・ワイアットは捉えられます。
このワイアットの乱、トマス・ワイアットを含め4人の指導者がいたとされますが、そのうちの一人が、あろうことかジェーン・グレイの父、サフォーク公ヘンリー・グレイだったのです。
しかし、ここにあっても、メアリー1世はジェーンを助けるつもりでいました。
メアリー1世の名は、ヘンリー8世の妹でありジェーン・グレイの祖母にあたるメアリー・テューダにちなんだものであり、また、そのメアリー・テューダは、メアリー1世の母キャサリン・オブ・アラゴンの親友でもありました。
キャサリン・オブ・アラゴンは、メアリー・テューダがチャールズ・ブラントン(Charles Brandon, 1st Duke of Suffolk)と結婚するとき、その立会人を務め、また、ジェーン・グレイの母フランセス・ブラントンの洗礼の代母を、キャサリン・オブ・アラゴンと、メアリー1世が務めています。(ただしこのとき2人は出席せず、2人の女官を代理として遣わしています。)
さらに、ヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚の無効をローマ教皇に申請したとき、メアリー・テューダそれに猛反対し、そして、ヘンリー8世から遠ざけられ寂しく暮らすキャサリン・オブ・アラゴンを度々訪れています。
メアリー1世の不遇な少女時代を支えてくれた女性、メアリー・テューダ。
さらに、ヘンリー8世最後の妻であるキャサリン・パー(Katharine / Catharine Parr)は、庶子の身分に落とされたメアリー(後のメアリー1世)とエリザベス(後のエリザベス1世)を王女に戻すようヘンリー8世に嘆願し、王位継承者として王宮に呼び寄せて教育環境を整え、また、ジェーン・グレイを引き取って教育していた人物でもあります。
何かと近い関係にあるメアリー1世とジェーン・グレイ――何とかして助けたいけれど、反逆罪が決まった人間を特赦するには、それなりの名目が必要でした。
2月8日、メアリー1世は、特使としてフェキンハム博士(Fecknam)をジェーンのもとに遣わし、特赦したいと考えていること、そして、カトリック信者となり、メアリー1世への服従の証を見せることができれば、処刑から終身刑へ変更するつもりであることを告げます。
しかし、ジェーンはこれを断ります。
Fecknam’s interview with Lady Jane Grey in the Tower by Henry Pierce Bone after James Northcote.
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さらに処刑前日の2月11日、別の獄舎にいたギルフォードから、ジェーンに「会いたい」と申し出がありました。メアリー1世が、2人でよく話し合うよう特別に面会を許可したのだそうです。
よほど、メアリー1世はジェーンを救いたかったのでしょう。
しかし、ジェーンはこれも断ります。
もう、メアリー1世にも、どうすることもできません。
ギルフォードは2月12日の朝10時、ロンドン塔にあるタワー・ヒルに連行されます。そして、司祭は呼ばず、1人祈り、斬首されました。
ジェーンは、ロンドン塔の窓からギルフォードの遺体が運ばれるのを見て、夫の名を呼び、「ああギルフォード、あなたの試練は終わったのですね」と呟いたといいます。
そして、その約1時間後、ジェーンの処刑が執行されました。
The Last Moments of Lady Jane Grey by Hendrick Jacobus Scholten.
Collection: Historic Royal Palaces, Tower of London
ジェーン・グレイ(Jane Gray)処刑の後
ジェーン・グレイが2月12日に処刑されて後、2月23日にはジェーンの父ヘンリー・グレイが、そして4月11日にはトーマス・ワイアットが、反乱を指導したとして、ロンドン塔のタワーグリーンで斬首されます。
そしてメアリー1世は1554年7月20日にフェリペと結婚しますが、この結婚により、イングランドはフランスとスペインの戦争(第六次イタリア戦争)に巻き込まれる形となり、フランスに敗れ、大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うこととなります。
やがてメアリー1世は健康を害します。卵巣腫瘍だったといわれています。
自分の死期が近いことを悟ったメアリー1世――王位後継者は、異母妹エリザベス以外はいませんでしたが、メアリーは何かと確執の多かったこの妹との距離を縮めることができず、ようやくエリザベスを後継者に指名したのは、死の前日だったといいます。
メアリー1世は5年余りの在位の後、1558年11月17日にセント・ジェームス宮殿で崩御します。
そして、テューダ朝第5代にして最後の君主となるエリザベス1世(Elizabeth I)の統治下でイギリスは黄金時代を迎え、後の大英帝国の礎を築くこととなるのです。
テューダー・ローズの紋様とオコジョの毛皮で飾った即位衣を纏うエリザベス1世
Queen Elizabeth I of England in her coronation robes, patterned with Tudor roses and trimmed with ermine. She wears her hair loose, as traditional for the coronation of a queen, perhaps also as a symbol of virginity. The painting, by an unknown artist, dates to the first decade of the seventeenth century (NPG gives c.1600) and is based on a lost original also by an unknown artist.
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ロンドン塔に静かに眠るジェーン・グレイ(Jane Gray)
ロンドン塔(Tower of London)は、イギリスの首都のロンドンを流れるテムズ川岸、イースト・エンドに築かれた中世の城塞です。
1066年にイングランドを征服したウィリアム征服王(William the Conqueror:William I 、1027年 – 1087年9月9日)が、1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、約20年で現在のホワイト・タワーが完成します。その後、獅子心王(Richard the Lionheart)として知られるリチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 – 1199年4月6日)が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世(Henry III, 1207年10月1日 – 1272年11月16日)が完成させました。
以降、王朝が変遷してからも国王が居住する宮殿として1625年まで使われ、その間、14〜19世紀にかけては造幣所や天文台も兼ね、1640年までは銀行、13世紀から1834年までは王立動物園でもありました。ロンドン塔に最後に居住した王はジェームズ1世(James I)とされています。
Tower of London viewed from the River Thames.
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しかし、1282年からは、身分の高い政治犯を収監、処刑する監獄としても使用されはじめ、14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する死刑場となり、現在では城塞や王宮としてよりこちらの方で有名となっています。第二次世界大戦中、対英和平交渉を結ぶべくドイツから単独で飛来し捕虜となった副総統ルドルフ・ヘス(Rudolf Walter Richard Heß, 1894年4月26日 – 1987年8月17日)が1941年から1944年まで勾留され、最後の塔の収監者となりました。
Map of the Tower of London (English version)
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ロンドン塔は、現在もイギリス王室が所有する宮殿であり、ビーフィーターと呼ばれる衛兵隊によって管理されるほか、現役のイギリス陸軍近衛兵も警護に当たっており、ロンドンの人気観光地の一つとなっています。
Yeoman Warder (commonly known as a Beefeater) at the Tower of London, England.
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ロンドン塔内を歩いていると、多くのカラスがいることに気がつきます。
これは、以前ロンドン塔に多く住み着いたカラスをチャールズ2世( Charles II, 1630年5月29日 – 1685年2月6日)が追い払おうとしたとき、占い師に「カラスがいなくなるとロンドン塔が崩れ、ロンドン塔を失った英国は滅びる」と予言され、それ以来ロンドン塔では、一定数のワタリガラスを飼育する風習が始まり、今に引き継がれているためです。
また、アーサー王伝説において、アーサー王が魔法でワタリガラスに姿を変えらたという伝説があり、古来よりイギリスではワタリガラスを殺す事はアーサー王への反逆行為とも言われ、不吉な事が起こると信じられてきました。
日本でもカラスを眷属神として祀る神社は多く、不思議な共通点を感じます。
ロンドン塔のカラスは「レイヴンマスター」と呼ばれる役職の王国衛士によって養われていますが、このワタリガラス、なかなか気性が荒く、みだりに観光客がちょっかいを出すと襲われるケースもあるそうですので、ご注意を。
王室近衛兵と一緒にロンドン塔を守るカラス
世界中からの観光客で賑わうロンドン塔の一角に、セント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂(Church of St Peter ad Vincula)があります。
ジェーン・グレイとギルフォードは、アン・ブーリン、キャサリン・ハワードなど、同じようにロンドン塔で処刑されイギリスの歴史の礎となった多くの人たちと一緒に、このセント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂(Church of St Peter ad Vincula)で、今は静かに眠っています。
セント・ピーター・アド・ヴィンキュラ王室礼拝堂
Church of St Peter ad Vincula