ベアトリーチェ・チェンチの肖像-真相は闇の中~心を離さない絵画~

こちらを振り向き見つめる若い女性の肖像――この肖像画はメディアでとりあげられることも多く、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

Portrait of Beatrice Cenci (1577-1599)

“Formerly attributed to Guido Reni (1575–1642)” or “Formerly attributed to Elisabetta Sirani (1638–1665) ” . Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.

 

一般的に「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」として知られるこの肖像画は、現在ローマのバルベリーニ宮殿国立古典絵画館が所蔵、展示しています。

バルベリーニ宮殿国立古典絵画館

バルベリーニ宮殿国立古典絵画館

Facade avant du palais Barberini. Rome

Licensed under Creative Commons License ”CC BY-SA 3.0″ , via Wikimedia Commons

バルベリーニ宮殿国立古典絵画館

この宮殿の門は、1953年の映画『ローマの休日』において、アン王女が滞在および脱走する某国大使館の門として使用された。

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ベアトリーチェ・チェンチは16世紀に生きたイタリア名門貴族の女性で、父親を殺害したとする尊属殺人の罪で、22歳のとき、斬首刑に処されたとされています。この肖像画で彼女が纏う白い衣装は彼女の死装束であり、頭に巻いている白い布は、斬首のとき髪が邪魔にならないよう纏めるものとされています。

それを念頭にこの肖像画を見ると、女性はひどく悲しげであり、寂しげでもあり、また絶望しているようにも見えます。

しかし「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」と称されるこの肖像画は、実際のことろ不明なことがとても多く、作者も確定していません。また、描かれている女性についてもはっきりとしたことはわかっておらず、ベアトリーチェ・チェンチではない可能性も高いとされています。

だとしたら、これは、いったいどのような女性の、どのような状況を描いた肖像画なのでしょう。

この肖像画は、長くグレイド・レーニ(Guido Reni : 4 November 1575 – 18 August 1642)の作とされてきましたが、最近の科学的調査によりレイニーの死後に描かれたものであることがわかりました。

そして現在最も有力とされているのが、女性画家エリザベッタ・シラーニ(Elisabetta Sirani : January 1638 – 28 August 1665)による作品だとするものです。

 
Guido_Reni

Guido Reni (4 November 1575 – 18 August 1642)

Self portrait, c. 1602

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17世紀前半バロック期に活動したイタリアの画家。イタリア北部のボローニャまたは、その近郊の町で生まれたとされる。アンニーバレ・カラッチらによって創始されたボローニャ派に属する画家で、ラファエロ風の古典主義的な画風を特色とする。レーニは生前から「ラファエロの再来」と呼ばれ、ドイツの詩人ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe : 28 August 1749 – 22 March 1832)は「神のごとき天才」と激賞した。

 
Elisabetta_Sirani

Elisabetta Sirani (8 January 1638 – 28 August 1665)

Self-Portrait as Allegory of Painting (1658) by Elisabetta Sirani, Pushkin Museum, Moscow

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17世紀に活躍したイタリアの女性画家。イタリア北部のボローニャに生まれ、彼女の父親ジョバンニ・アンドレア・シラーニ(Giovanni Andrea Sirani)はボローニャ学校の画家であり、グレイド・レーニの弟子でもあった。早描きで有名で、生涯で200点以上の絵画、15点の版画、数百点に及ぶ図面を残している。聖書やギリシャ・ローマ神話への知識が深く、その作品には寓意画、宗教画が多い。女性アーティストのためのアカデミーを設立し、多くの女性アーティストの教育に貢献した。また、その才能は絵画に留まらず、喜劇の演出も行っている。彼女は27歳で突然の死を遂げており、殺人が疑われ使用人が裁判にかけられたが、実際は消化性潰瘍の破裂後の腹膜炎の発症である可能性が高いとされている。

 

しかし、未だにグレイド・レーニ作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」として紹介されることの多いこの絵画――日本でも、源頼朝とされる肖像画とか、足利尊氏とされる騎馬武者絵とか、同じようなこと結構ありますよね。

 

『怖い絵-死と乙女篇』 (角川文庫)でこの肖像画を紹介している中野京子さんは、「別人とわかってもなおまだ見る者を魅了して初めて、絵画は本物になる」と書いておられます。

でも、もし本当に別にモデルとなった女性がいたとしたら、少し気の毒な気もしますね。

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ベアトリーチェ・チェンチの生涯

ベアトリーチェ・チェンチ(Beatrice Cenci)は、1577年2月6日、イタリア貴族フランチェスコ・チェンチの娘として生まれました。

チェンチ家は名門で、ローマのレゴラ区のユダヤ人居住区(ゲットー)の端にある中世の要塞跡に建てられたチェンチ宮で暮らしていました。また、ローマの北、リエーティ近郊の小さな村には、「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という名前の城も所有していました。

Palazzo_Cenci-Bolognetti

イタリア ローマに今も残るチェンチ宮

Rome, the Palazzo Cenci-Bolognetti

Licensed under Creative Commons License ”CC BY-SA 3.0″ , via Wikimedia Commons.

 

ベアトリーチェの家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィア・ペトローニ、そしてその子供でまだ幼かったベルナルド(ベアトリーチェの異母弟にあたる)がいました。

やがてベアトリーチェが7歳の時、生母エルシリアが亡くなると修道院の寄宿学校に入り、15歳くらいまでそこで過ごします。中世ヨーロッパでは、上流階級の女性は修道院の寄宿舎に預けられ、そこで教育を受けることが多かったようです。ただ教育といっても、当時の上流階級の女性にとって幸せとされたのは、主に「良いところに嫁ぐこと」です。教育の内容は花嫁修業に近いものだったのかもしれません。

ベアトリーチェが寄宿学校を出て数年後、フランチェスコ・チェンチが長らく姿を見せないことに疑問を抱いた官憲は調査を開始、やがて彼の死体が発見されます。当初、回廊から足を滑らして墜落した事故死とみられましたが、それに検視官が疑いをもちます。次第にこれはチェンチ一家による尊属殺人であるという見方が強まり、一家は逮捕され、有罪判決を受けます。

そして1599年9月11日、一家はサンタンジェロ城橋で処刑されました。

このとき、ベアトリーチェは22歳でした。

StAngelo_Bridge_Rome

イタリア ローマにある サンタンジェロ城サンタンジェロ橋

Castel Sant’Angelo/St. Angelo and Ponte Sant’Angelo (Rome)

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伝えるところによると、兄ジャコモは木槌で手足を4隅に打たれ四つ裂の刑に処され、その後、義母ルクレツィアとベアトリーチェは順番に斬首され、唯一死刑を免れた若い弟ベルナルドは、処刑台で家族の処刑を見せられたといわれています。 
 
RomaCastelSantAngelo

Castel Sant’Angelo、日本語にすると「聖天使城」と呼ばれるこの城は、135年、ローマ帝国の皇帝でいわゆる「五賢帝」のひとりハドリアヌスが自らの霊廟(ハドリアヌス廟(ラテン語: Mausoleum Hadriani))として建設を開始し、アントニヌス・ピウス治世の139年に完成した。天使とする名称の由来は、590年にローマでペストが大流行した際、教皇グレゴリウス1世が城の頂上で剣を鞘に収める大天使ミカエルを見て、ペスト流行の終焉を悟ったという伝説による。橋には10体の天使の彫刻が飾られている。1933年以降は博物館として現在も多くの人に親しまれている。

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斬首刑は苦しむ時間が少ない刑として、貴族階級にのみ許された名誉の処刑とされていました。ただ、苦しむ時間が少ないとはいっても、執行人がしくじり相当な苦痛を伴うこともあったようです。ちなみに、一般人は絞首刑か撲殺刑だったようです。

さらに、斬首刑といえばイギリスのジェーン・グレイアン・ブーリンの処刑シーンを思う方も多いと思います。真白い服を着て断頭台に首を置く、高貴で儚げな女性――しかし当時のイタリアの場合、服を胸の下まで下げ、台の板に馬乗りになるという、女性にとっては大変屈辱的なものでした。さらに、当時は公開処刑です。大勢の民衆が一家の処刑を見物に訪れたと言われています。

ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬されたと伝えられています。

ベアトリーチェ以外の家族も一緒に埋葬されたのだろうか、といろいろと調べてみましたが、家族の埋葬に関する情報は見つけることができませんでした。

一家の処刑後、チェンチ家の領地を含む莫大な財産は、ローマ教皇クレメンス8世により没収され、全てが教皇の家族のものとなったといわれています。

宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した、哲学者ジョルダーノ・ブルーノ、そしてチェンチ一家を処刑にしたことで、後生に汚点を残すこととなったクレメンス8世ですが、一方で、クレメンス8世は聖職者としても政治家としても、非常に優れた人物だったとされています。

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サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会(外観)
San Pietro in Montorio (Rome); Facade
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サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会(聖堂)
San Pietro in Montorio (Rome); Nave
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San_Pietro_in_Montorio_Cappella_Raimondi

サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会(礼拝堂)
San Pietro in Montorio (Rome); Cappella Raimondi
Licensed under Creative Commons License ”CC BY-SA 4.0″, via Wikimedia Commons

 

事件の真相は闇の中

若く美しい女性の悲劇的な最期は、人々の想像力をかきたてます。ましてや、幼い弟を除く一家全てが処刑、その莫大な財産が時の権力者により没収されたとなれば、悲劇のヒロインとしてのストーリーは、事実を置き去りにしたまま一気に加速を進めます。

現在でも多くの小説や舞台、映画などで語られる事件の内容は、たいだいこうです。

  • フランチェスコ・チェンチは非常に素行の悪い人物で、窃盗、暴力、色恋沙汰などで多くの人々に迷惑をかけていた。そして、美しく成長したベアトリーチェを監禁し、近親相姦を強要した。
  • 耐えられなくなった一家はフランチェスコを殺害。やがて逮捕され有罪判決を受けるが、犯行の動機を知った民衆は、一家に同情して処刑判決に反対する。しかし、結局刑は執行された。
  • チェンチ家の領土を含む莫大な財産は、ローマ教皇クレメンス8世により没収され、全て教皇の家族のものとなった。

全てを信じてしまえば悲劇この上ないこのストーリー、はたしていったいどこまでが本当なのでしょうか。ちなみに、処刑されたときのベアトリーチェの年齢を16歳とする作品が多いですが、実際は22歳とされています。

事実と真実は異なります。実際にあった揺るぎない出来事が事実だとすれば、真実にはそれを見た人・体験した人の主観が加わります。事実は一つであるが、真実は複数ある――つまり、真実はこの事件に関わった人の数だけ存在することとなります。

既に過去となった事実を知る手段としては「時の権力者や大衆の感情とは無縁に、中立的立場で書かれた歴史書」に頼らざるを得ず、はたしてそのようなものが存在するのか疑わしいところです。

歴史上の事実を知ろうとすれば、中立的なものと思われる歴史書の中から、それを書いた人物の立場、当時の政権や世相などの歴史的背景を考慮し、「書いた人物の主観」を取り除いていく必要がありませす。

ある古文書にはこう記載されています――「フランチェスコの一番悪いところは、神を信じず、教会を訪れたこともないことである」。そして、最近の研究では、フランチェスコとベアトリーチェの間に、近親相姦の事実はなかったといわれています。

ここからは、私の想像です。

莫大な財産をもちながら教会にお金を落とさない名門貴族、教会が、フランチェスコに良い感情をもっていなかった可能性は高いのではないでしょうか。そして、ある日フランチェスコが何らかの理由により死亡した。かねてより彼を疎んじていた教会は、彼の死を利用して事件をでっち上げ、チェンチ家の莫大な財産を手に入れた、というストーリーも考えられます。

そもそもフランチェスコの死は何だったのか、事故死か、それともチェンチ一家による尊属殺人か、或いはその他の者による陰謀か。

いずれにしても、真相は闇の中、今では物語として語られるのみです。ただ、もしフランチェスコに着せられた罪のほとんどが冤罪だとすれば、世界中の文学で「不道徳極まりない男」として描かれ続ける彼が、あまりに気の毒な気もします。

そして、チェンチ一家が、1599年9月11日、サンタジェロ城橋で処刑されたのは事実です。彼らは何故死ななければならなかったのか、本当に尊属殺人の罪を犯したのか、それとも、権力という怪物の犠牲となったのか。いずれにしても、一家の死が悲劇であったこともまた事実です。

 

美しい絵画は人々の想像力をかきたてます。

この若く美しい女性は、何を思い、何を語りかけているのでしょう。

彼女の声が聞こえますか?

 

 

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