長い長いひとりごと~強迫性障害という病気~

私は強迫性障害という精神疾患を患っていますが、このブログには「強迫性障害でつらい」というような内容はなるべく書かないようにし、できるだけ誰かの役に立つ内容を掲載するよう努めているつもりです。

ちなみに、強迫性障害という精神疾患、私の今までの状況については、以前書いたこちらの記事をご覧ください。

強迫性障害(OCD)について

強迫性障害と私(発症)

強迫性障害と私(病気がわかってから)

強迫性障害と私(その後)

強迫性障害と私(今苦しんでおられる方へ)

しかし、強迫性障害であることをプロフィールに掲げ情報発信していながら、強迫性障害のつらさを語らないというのも、ただの奇麗事というか、現実から目を背けているだけのような気がします。しかし反面、このブログを訪問し記事を読んでくださる方が、ネガティブな内容の記事を望むだろうか、できるだけ楽しんでいただける記事を書きたい、そういう気持ちもあります。

ただ、自分が苦しんでいる姿を晒すことも、同じように苦しい思いをされている方にとっては、もしかしたら有益な情報なのかもしれない、そう考え、今回「ひとりごと」として書いてみます。

それと、何より今ちょっとしんどいので。

ここ何年か、しんどいながらも何とか自分なりの上手な強迫性障害とのつきあい方をというものを模索し、職場にもこの病気のことは報告せず、誰にも言わず頑張ってきたつもりです。

強迫性障害の症状は人様々ですが、私の場合、職場の汚れを聖域である自分の家に持ち帰ることに、異常なまでの嫌悪感と恐怖を抱き、不安でたまらなくなるというものです。私の仕事は事務なので、普通の感覚では「汚れる」ものではありせん。私が不安に感じる「汚れ」とは観念的なもので、どちらかというと「穢れ」という感覚に近いものだと思います。

職場の人たちは普通にいい人が多く、この病気さえなければ恵まれた職場だと感じています。

とにかく職場の汚れ、穢れを自分の家に持ち帰ることに極度な恐怖と不安を感じる私は、一番酷かった時期は、家に帰るとまず洗濯機に直行し、着ていた服を脱いで洗濯し、その間、帰ってから自分がつかえたかもしれない場所を除菌ウエットで拭きまくります。場合によってはこの間に一回目の洗濯が終わりますが、その後、まずお風呂に入り、髪、身体、顔を洗いまくります。お肌を傷めるとか、アンチエイジングとか、全く関係ありません。ひたすらナイロンタオルでごしごしと洗いまくるのです。そして一通り洗い終えたところで、洗濯機の自分や着ていた服がつかえたかもしれない場所を除菌ウエットで拭きまくり、二回目の洗濯をし、その間再びお風呂で身体中洗いまくっていました。

こんな異常な行動を家族に見せることはできません。私の場合、家族に迷惑をかけたくないという思いがとても強いのです。なので、仕事が終わっても家族が眠るまで帰宅することができず、適当に車で時間をつぶし、家の電気が消えるのを待ってからひっそりと帰宅し、上に書いたような何時間にも及ぶ強迫行為に及んでいました。そして、やっと二時間程度の睡眠をとり、再び仕事に出かけるという生活を、約半年は送っていたような気がします。

やがて症状が落ち着いてくると、自分なりに少しでも楽な方法を模索しました。本当は自宅に帰るとすぐに着ていた服を脱いで洗濯し、お風呂に入りたいのですが、どうせベッドに入る前にもお風呂に入らなければなりません。お風呂に入るという行為は、私のように洗浄強迫観念をもつ人間にとってはとても大切で必要な行為なのてすが、強迫観念を伴った行動でもあるため、肉体的にも精神的にも非常に疲れるものでもあります。それに、自然環境のこと、光熱水費のことを考えても、お風呂はできれば一日一回にしたい、そして何より、家族や愛犬との時間を大切にしたいと思い、いろいろと試しました。そして、ここ数年は次のようなやり方で、少し落ち着くことができていました。

家に帰るとまずジャージに着替え、髪がどこにもつかえないよう纏めます。もちろんお風呂に入るまでは自分の部屋には入ることができないので、専用のスペースを用意し、そこで着替えます。お風呂は家族が眠った後に入ります。お風呂に入るまでは、洗った手以外、自分の身体がどこにもつかえないよう細心の注意を払い過ごします。洗濯も、毎日していたのを二日に一回にしました。この方法で、何年かはしんどいながらも私なりに普通に近い生活を送ることができていました。

ただ、職場で着ていた服は二回洗濯しないと汚れが落ちた気がしません。また、手を洗っている最中も、つかえるはずもない耳に手が触れたという妄念が沸き起こり、手洗いがなかなか終わらないこと、何度も手を洗い直すことは日常茶飯事で、決して楽ではありませんでしたが、あの酷かった時期に比べるとかなり落ち着いていたと思います。

ちなみに「耳に手が触れる」というのは、私は職場で他人の耳に直接触れる電話を共同で使うことがとても嫌なのです。耳周辺というのは人間の身体でも皮脂の分泌が盛んな場所の一つです。体液系は私の最も恐れるものの一つで、それを持ち帰ることで嫌な縁を家に持ち込んでしまうという不安と恐怖が拭えないのです。
同じ理由で、トイレも自宅以外のものは使用することができません。唯一使用できるのは、ホテルや旅館の個室にある、綺麗に掃除されたトイレだけです。「よく我慢できるね」なんて言われますが、別に我慢しているわけではなく、そういう身体、習慣になっているのだと思います。まあ話のレベルは違いますが、外科医が何時間にも及ぶ手術でも尿意を感じないのと同じ原理だと思います。

とまあ、こんな感じでここ何年かは少し落ち着いた生活を送ることができていたのですが、今年途中、私は建物の管理をする部署に異動になりました。主な業務内容は清掃委託などです。私が直接清掃をするわけではありませんが、ゴミ箱にも近づけない、外でトイレを使用することもできない私が、そういう業務を担当することとなったのです。もちろん業務の内容は清掃委託のみではありませんが、日々の業務の中では、トイレのつまり、汚れ、またゴミの廃棄に関する対応も多く、主には清掃業者との仲介役なのですが、日々恐怖が増していっています。

誤解のないように言っておきますが、私が苦手なのは清掃してくださる方ではなく、トイレやゴミ、そこの汚れです。

職業に貴賤なし、法に触れたり他人に迷惑をかけたりするようなものでなければ、全ての職業、そこで働く人たちは全て尊敬されるべきだと思っています。清掃してくれる人たちがいるから、みんなが気持ちよく過ごすことができる、理屈ではわかっていますが、やはり、私は公衆のトイレやごみ箱が恐いのです。

こんなに従業員がいるのに、どうしてトイレにも行けない、ゴミ箱にも近づけない、職場で飲食をすることもできない私がそういった業務を割り当てられたのか、そんなことをつい考えてしまいます。何とか頑張って、何とかぎりぎりのところでまともな生活を送ることができるよういろいろと努力しているのに、どうしてこんな追い討ちをかけるようなことをされるのか、そんなことを考え、どうしようもなく涙が溢れ止まらなくなることもあります。「もう辞めろってことかな」、そんなことさえ考えてしまいます。

もちろん職場には私に対する悪意はありません。病気のことも報告していないし、それなりに大きな組織なので、たまたま人事のパズルがそうはまっただけなんです。

でも、やはりつらいのです。
最近は「眠ったらもう目覚めなければいいのに」と強く思うことが多いです。
しかし、それは決して「死にたい」という意味ではありません。死ねば本当に全てが終わってしまいます。こんな人生のまま終わるのは嫌だし、悔しいです。それに、もし私が死んでしまえば、家族の心を悲しみで満たし、残りの人生の何もかもを奪ってしまうことにもなります。そんな身勝手は許されないし、そんなことをしたくもありません。

でも、つい「目覚めなければいいのに」「眠り続けたい」などと、都合のいい現実逃避に浸ってしまうのです。

それでも10月はじめくらいまでは頑張っていました。今までと同じように、帰宅すると着替え、家族と過ごし、家族が眠ってからお風呂に入る。ただ、使う除菌ウエット、ハンドソープ、ボディーソープの量はだんだんと増え、ついに一週間に一本ペースになりました。

ほんと、この病気は経済面でもつらいです。

そして10月中旬、私は帰宅するとすぐにお風呂に入る生活に変えました。家族には「まずお風呂入って落ち着きたい、ご飯は後で食べる」と伝えています。しかし、結局ベッドに入る前にもう一度お風呂に入らなければならないのです。もちろん家族が寝た後で。帰宅してお風呂に入ってから、もう一度お風呂に入るまで過ごすホームウェアも新たに購入しました。ほんと、無駄で無益な出費です。これで、自宅では少し楽な気持ちで過ごすことができるようになりましたが、やはりストレスは大きいです。何時間かあけて再び入浴するというのは、相当の体力と精神力を費やします。また、洗濯も今では毎日しています。しかし、この方法で生活するのが、今の私にとって一番楽な方法なのだと思っています。

落ち着いていた数年の間、私はこの病気への対策を何もしていなかったわけではありません。私の場合、職場というものを汚く感じてしまう、これは転職して会社を変えたところで同じことを繰り返すだけだと思います。また、転職して今より条件の良い企業に就職するこは難しいでしょう。

私にとって最良の方法は、自宅でお金を稼ぐことです。

自宅でお金を稼ぐことができたら、無理のない範囲で外出し、私なりの社会との関わり方を見つけ、自分のペースでこの病気と向き合うことができるかもしれない、そんなことを妄想しながらこのブログを始めたり、他にもいろいろなことを考えたりしました。でも、結局全て中途半端だったんだですよね。仕事も、比較的恐怖を感じることが少なく、内容的にも自分の興味のある分野の部署に配属されていたということもあり、「ここにいる間に何とか逃げ道を探さないと、自分はいつか大変なことになる」と自覚していながら、やはりどこか現状に甘え、大切なことを先伸ばしにしてきた感は否めません。そして、漠然と恐れていたことが現実となって、今ここにある。でも、今よりも更に悪い状況というものも考えられます。今がどん底ではない、本当にそこに至る前に、やはり何とかしなければいけないと思います。

ただ、雇われることなく自分で稼ぐということは、私のように凡庸な発想力、思考力、行動力しか持ち合せていない人間にとっては、そう簡単なことではありません。

安定した生活を続けたければ、今の仕事を続けていくことが最も確実です。しかし、それはどうも許されないようだということを、今回の異動で強く感じています。

自分を守ることができるのは、結局自分だけなのだと思っています。

しかし、せめて今と同等か、それ以上の収入を恒常的に得られることが見込めなければ、仕事を辞めるべきではないと考えています。

はい、とてもハードルは高く、難しいことです。

しかし、今の私の状況では、ただただ外的要因に怯え、強迫観念に精神を支配されるだけの生活です。それもいつかは定年退職という形で終わるのでしょうが、それまでに無駄に過ごす時間はあまりに多すぎます。また、定年退職する頃の私に、一体何が残り、何ができるというのでしょう。

私は基本「今より良いときはない」と思って生きています。何かしなければ今より落ちていくだけです。おとぎ話のように、耐えて頑張っていれば誰かが見ていてくれて、いつか報われるということは非常に稀です。努力は必ずしも報われるものではなく、耐えることが必ずしも美徳とはなり得ないことを、私は知っています。

今がつらいのなら、ただ耐えるだけではなく、そこから抜け出すための思考と努力が必要です。

生きていれば必ず歳をとるし、年齢を重ねると別れも必ず経験していきます。そのとき故人との関係を想い、後悔の念を抱くことは、誰にでもあることだと思います。どんなに相手を大切に想い、誠意をもって接していたとしても、そこに完璧なんてものはありません。もし仮に完璧があったとしても、人は、大切な人やペットとの別れと向き合うとき、様々なことを振り返り、必ず後悔と責任を感じるものだと思います。そのとき、私はこの強迫性障害のことを考えたくないのです。

人生は一度きり。

今より若いときはない。

よく考え、今の仕事も大切にしながら、いろいろな可能性を模索していきたいと思います。

いつか、この写真のような景色を、こんな風に見られるといいな。

すみません、長い長い「ひとりごと」でした。
ここまでおつきあいいただいた方、ありがとうございます。

同じ強迫性障害に悩んでおられる方、お互いつらいことも多いですが、この病気に負けないよう、人生を楽しむことを考えたいですね。また、この病気ではない方、世の中には一見普通に過ごしているように見え、内面でこういう精神疾患と闘っている人もいるのだな、と心の片隅にでも留めていただけたら幸いです。そして、身近にこの病気で苦しんでいる方がおられる方は、その方との接し方のヒントとしていただけたら、思います。

「かぐや姫の恩返し」、小さなブログですが、今後も私なりに誰かの役に立つ内容を情報発信していけるよう、頑張ります。

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