足利義教の苦悩

周囲から恐れられていた歴史上の人物といえば、多くの方が織田信長を連想するかもしれません。

織田信長は、比叡山焼き打ち、謀反を起こした荒木村重の一族郎党に対する仕打ち等、その苛烈ともいえる行為が小説、ドラマ等で描かれ、あまりにその印象が強く、第六天魔王とも称されるようなイメージが創り上げられました。ちなみにこの第六天魔王、信長本人が自ら名乗った記録は一切ありません。
ただ、この織田信長、女性や庶民への優しい行い、部下の悩みに真摯にアドバイスする等、人情に厚い一面、異国の新しい文化への関心の高さ、またその政略等から、非常に人気の高い歴史上の人物の一人です。

今回のお話は、その織田信長よりも少し前、後に「悪御所」「万人恐怖」等とも称されるようになる、室町幕府第六代将軍足利義教(あしかがよしのり)についてです。



紙本著色足利義教像(重要文化財)<愛知県-宮市妙興寺蔵>
Portrait of Ashikaga Yoshinori (Important Cultural Property of Japan). Licensed under “Public domain”, via Wikimedia Commons.



足利義教は、室町幕府第三代将軍足利義満の五男として生を受け、10歳の頃に青蓮院に入室、義圓(ぎえん)と名乗ります。この時、義圓は将軍家に生まれながら、将軍就任にはとても遠い存在でした。

しかし、第五第将軍足利義量(よしかず)が急死し、その後、義量の治世の間もずっと実質の実権を握っていたその父、第四第将軍足利義持(よしもち)が、後継者を指名しないまま亡くなってしまいます。

困った幕府の重鎮たちは、いろいろ考えた結果、「そうだ、神様に決めてもらおう!!」ということで、石清水八幡宮にて、後継者となり得る者たちの中から籤引きで次期将軍を決定することとします。

籤引きと言っても、今と昔では意味が違います。選ばれるのは運ではなく、神様の御意思です。この籤引きで選ばれた将軍は、つまり「神様によって選ばれた将軍」なのです。

ここで選ばれたのが、義圓、後の足利義教でした。このことから、彼は「籤引き将軍」とも呼ばれます。
この知らせを受けた義圓は幾度か辞退しますが、何度もお願いされ、結果、第六代将軍への就任を受けることとなります。

しかし、義圓は元服前に出家したため、俗人としてはまだ子供扱いであり、無位無官であったこと、法体の者が還俗して将軍となった前例のないこと等から、公家等からの反発が強く、義圓はとりあえず髪が伸び元服を行えるようになるのを待ち、その後、征夷大将軍、つまり第六代将軍に就任し、義教と名乗ります。
このとき35歳、彼の人生は大きく変わります。

足利氏の家紋「足利二つ引(あしかがふたつひき)」

将軍就任直後、義教は、当時失墜していた室町幕府権威の復興に積極的に取り組みます。施策の手本は、父である第三代将軍足利義満であったとされています。

最初に、参加者の身分・家柄が固定化された評定衆(行政・司法・立法の全てを司る幕府の最高政務機関)・引付(訴訟専門機関)に代わり、将軍自らが主宰して参加者を指名する御前沙汰の権威強化に乗り出し、雑訴のみならず所務も御前沙汰の評定対象として加え、室町幕府における事実上の最高評議機関とします。

ちなみに、義教は訴訟への関心が強く、「御沙汰を正直に諸人愁訴を含まざる様に御沙汰ありたき事なり」(人々が愁いを残さぬような公正な裁判を行いたい)という言葉を残しています。

さらに義教は、管領(将軍補佐職であり行政機関の最高官職)の権限抑制策を打ち出し、管領を経由して行ってきた諸大名への諮問を将軍が直接諮問することとします。このことで、諸大名と将軍との主従関係を強化し、当時不穏であった社会情勢の改善を図ります。

また、義満によって始められ、義持の代に中断されていた勘合貿易を、自ら兵庫へ赴き遣明船を視察するなどして再開し、財政再建策へも着手します。

もともと天台座主であった義教は、当時力を持っていた寺社の恐ろしさを知っており、その勢力へも積極的に介入していきます。

さらに、将軍直轄の奉公衆の整備などの軍制改革を行い、軍事力強化を図ります。
そして、大内盛見(おおうちもりはる)に九州征伐を命じます。盛見は戦死してしまいますが、跡を継いだ甥の大内持世(おおうちもちよ)が山名氏の手を借り、渋川氏、少弐氏、大友氏を撃破、腹心となった持世を九州探題とし、九州を支配下に置きます。

さらに不穏であったの関東の情勢です。

室町幕府は南北朝時代に関東統治のため鎌倉府を設置、この鎌倉府は足利氏出身の鎌倉公方と、これを補佐する上杉氏出身の関東管領に指導されていましたが、鎌倉公方と関東管領はしばしば対立していました。
鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)は、義教の将軍就任に反発しており、そのことから義教とも不仲な状態が続いていました。さらに応永26(1419)年に関東管領に就任した上杉憲実(のりざね)とも、険悪な関係が続きます。

永享6(1434)年7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が立ちます。
また、永享10(1438)年、持氏の嫡子足利義久(よしひさ)の元服の折、持氏が将軍である義教を無視し、勝手に名前をつけた(当時は慣例として将軍から一字(諱の2文字目、通字の「義」でない方)を拝領していた)ことなどから、幕府との関係は一触即発となっていきます。
この対立が激化し起きたのが「永享の乱」ですが、結果、持氏が敗北、義教は父義満すら成し遂げられなかった関東平定を、遂に成し遂げたのです。

こうして、義教は着々と中央集権を実現していきます。

義教は、よく短歌を嗜んでいたことでも知られています。
新続古今和歌集」は、義教の執奏により、後花園天皇の勅宣を以って権中納言飛鳥井雅世(初名雅清)(あすかいまさよ)が撰進、和歌所開闔(かいこう)として堯孝(ぎょうこう)が編纂に助力し、編纂されたものです。
これには、義教の歌18首が入集されています。

しかし、嘉吉元(1441)年6月24日、将軍が自分を討とうとしているという噂を耳にした赤松満祐(みつすけ)により、義教は暗殺されてしまいます(嘉吉の乱)。48歳、室町幕府権威復興の夢半ばでした。
ちなみに、第四第将軍足利義持により左遷されていた赤松氏を復興させたのは、義教その人です。

そして、義教が殺害されたことで、室町幕府の力は急速に衰え、戦国時代へと続く戦乱の世へと移っていきます。

後に「悪御所」「万人恐怖」と称される足利義教ですが、こういった彼の業績を評価する声も高いです。

しかし、ここまで読んだだけでは、何故義教が「悪御所」「万人恐怖」と称されたか、わかりませんよね。
義教は苛烈な側面があり、些細なことで激怒し厳しい処断を行ったと言われています。
公卿中山定親(なかやまさだちか)は、日記「薩戒記(さっかいき)」で、義教に処罰された人間を、公卿59名、神官3名、僧侶11名、女房7名と記しています。
また、伏見宮貞成親王(ふしみのみやさだふさしんのう)は「看聞日記(かんもんにっき)」の中で、商人の斬首について触れ、「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ(永享七年二月八日条)」と記しています。

義教についての逸話として、次のようなものが残されています。

  • 永享2年、公卿である東坊城益長(ひがしぼうじょうますなが)が、儀式の最中ににこっと笑顔を作った。義教は「将軍を笑った」と激怒し、益長は所領を没収された上、蟄居させられている。
  • 酌の仕方が下手だという理由で侍女(少納言局)は激しく殴られ、髪を切って尼にさせられた。
  • 説教しようとした日蓮宗の僧日親は、灼熱の鍋を頭からかぶせられ、二度と喋ることができないように舌を切られた。
  • 料理が美味しくないと料理人を追放、その後許すと呼び寄せ、斬首。
  • 幕府奉行衆の黒田某が梅の木を献上したところ、その運搬中に枝が一本折れてしまい、結果、庭師3人は捕えられ、黒田配下の奉行5人も捕えろとの命が下り、3人が逐電、2人が切腹となった。
  • 永享(1434)年7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れ、一時緊張状態となるが、延暦寺が降伏、和睦を申し入れ、義教はそれを受諾。しかし義教は本心では許しておらず、同7(1435)年2月、延暦寺代表の山門使節4人を京に招いた。彼らは義教を疑いなかなか上洛しなかったが、管領の誓紙が差し出されたため4人が出頭したところ、彼らは捕らえられ、首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺をした。炎は京都からも見え、世情は騒然となった。義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。

これらのエピソードは、本当のこともあれば作り話もあるかもしれません。
強烈な印象を残す歴史上の人物には、良くも悪くも常軌を逸したエピソードがつきまとうものです。

ただ、やはり義教には苛烈な一面はあったのかもしれません。
「籤引き将軍」と揶揄されながらも、室町幕府の権威復興のため一心に突き進む中で、その理想を追い求めるあまり、周囲を置き去りにしてしまったのかもしれませんね。
権力者とは孤独なものです。

ただ、訴訟の公平性、財政改革、中央集権等、足利義教という人物が目指し成し遂げていったことは、評価されるべきことも多いと思います。

私は、足利義教という人物が、常軌を逸したエピソードから解放され(いくつかは本当なんでしょうが、、、)、その業績が見直され、広く評価される日が来ることを、心から願っています。

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