日本史に関する記事を記載する上で、平氏系図があればわかりやすいと思い、エクセルファイルでこつこつと作成いたしました。
しかし、一枚にまとめようと欲張りすぎたため、画像として貼ると文字が小さくなってしまいました。
PDFファイルを添付しておきますので、興味のある方はご覧ください。
上手な人は、もっとわかりやすく作るんだろうな、と、少々悲しい気持ちでおります。
系図は第五十代桓武天皇に始まります。
そして、これを見ると、源氏も平氏も桓武天皇を共通の祖としていることがわかります。
また、同じ平氏の流れでも、熊谷氏、梶原氏、和田氏、三浦市、畠山氏など、主に関東方面に基盤を築いた者たちは、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)において源頼朝に従っている者も多く、治承・寿永の乱が単なる源氏と平氏の戦いではないことがわかります。
平氏とは
平氏は、姓の代表的なものの一つとして源氏・藤原氏・橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されています。
平氏には桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流がありますが、後世に残ったもののほとんどが桓武平氏です。
桓武平氏は、さらに、第三皇子葛原親王の流れである葛原親王流、第九皇子万多親王の流れである万多親王流、第十二皇子仲野親王の流れである仲野親王流、第十皇子賀陽親王の流れである賀陽親王流に分かれます。
中でも、最も繁栄し、後世に残ったもののほとんどが葛原親王流です。
葛原親王流は、さらに葛原親王長男の高棟王子孫である高棟王流、葛原親王二男の善棟王子孫である善棟王流、葛原親王三男の高見王の子・高望王子孫である高望王流に分かれます。
そして、高望王流は、さらに、坂東において武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた板東平氏と、西国の国司を歴任して瀬戸内海や九州を中心とした勢力圏を形成し勢力を固めていった伊勢平氏とに分かれます。
「平氏」と聞き、ほとんどの方がイメージする平清盛は、伊勢平氏の流れです。
伊勢平氏の家系は桓武平氏の嫡流の平国香、平貞盛の血筋であり、他の坂東八平氏に代表される家系と同様に、関東を拠点としていました。しかし、次第に清和源氏の有力な一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大し、在地の平氏一門をも服属させていった中で、伊勢平氏の家系は源氏の家人とならず伊勢国に下向し、源氏と同様、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩みます。
そして、正盛の子忠盛は、初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し、平氏の栄華を誇ることとなります。
平氏と平家
平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)を「平家」と呼びます。
或いは、平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶこともあります。
ただし、「平家」という言葉は本来、数多い平氏の中でも特定の家もしくは集団を指す言葉に過ぎず、初めは桓武平氏の中でも伊勢平氏が属する武家の高望王流ではなく、京の都で文官として活躍していた高棟王流の人々を指していました(『江談抄』(二))。
また、平氏政権時においても清盛一族のみならず、彼らに仕えている家人・郎党らを含めた軍事的・政治的集団を指す用法としても用いられ、この場合の「平家」には清盛に従った藤原氏や源氏の武士も含まれることになります。
そして、本来の「平家」である高棟王流は明治維新まで存続しているので、その意味では、壇ノ浦の戦い以後も「平家」は存続していたことになります。