鳥辺野に想う

私は幼い頃から人付き合いが下手で、一人でいる方が気持ちが楽でした。
なので、自分は結婚することはないだろうと幼い頃から思っていました。
そして、20歳を過ぎて強迫性障害の症状が強くなり、私の人生から結婚という選択肢はますます遠いものとなりました。

でも、年齢を重ねて、最近ふと思うのは、自分の亡骸の処理をどうするか、です。
誰にも迷惑はかけたくない、でも、死んでしまったら、その身体は誰かが処理しないといけない。
そこだけはきちんと決めておかないと、周りに迷惑をかけることになる。
どうしたものか、思案中です。
そんなとき、ふと考えてしまうのが、京都鳥辺野です。

鳥辺野は京都の葬送地のひとつで、平安初期から使用されていたとされています。

徒然草や源氏物語などの文学において、人の世の儚さを表現した鳥辺野(鳥辺山)ですが、2019年の発掘調査で墓跡がみつかり、文学のみでなく考古学的にも鳥辺野が葬送の地であったことが初めて裏付けられました。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。
世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。
飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。
住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。
長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

吉田兼好『徒然草』第7段は、教科書で学んだ方も多いのではないでしょうか。

ざっくり現代語にすると、
あだし野の墓の露は消えるときがなく、鳥辺山の火葬の煙が絶えないように、人生には限りがあるのがよいのだ。
人生が永遠に続くとして、どうしてもののあわれなどあるだろう。
人間ほど長い時間をダラダラと生きている生き物はいない。
暇を持て余し、ただ長い時間ボーッと生きていたって、ろくなことはない。
長く生きた分、恥をかく。
長生きしても40歳手前で死ぬのが良い。
それを超えれば、無様な姿をさらす己を恥ずかしいと思うこともなく、さらに長く生きたいと現実世界に執着する。
みっともない。

吉田兼好らしい、皮肉たっぷりの文章ですね。
人生100年時代と言われる令和の世では、特に最後の一文に心痛むのですが、吉田兼好は70歳近くまで生きておられたようです。

当時火葬は大変なお金と手間がかかるものだったので、高貴な方のみに行われ、貴族でもそこまででない人は土葬、あるいは野ざらし状態だったようです。鳥辺野の北は庶民、南が皇族・貴族という区分けはあったようですが、行く先は皆同じだったのですね。当時「死」は「穢れ」とされていたため、どんなに高貴な方でも、亡骸となってしまえば早々に鳥辺野へと送られます。

庶民でも、鳥辺野のような葬送地へ送られる者はまだ恵まれていて、都を少し外れたところには、いくつもの死体が転がっていたといいます。そんな状態では、当然ながら感染症も蔓延しますよね。親しい人がいて、その人に余力があれば葬送の地まで連れて行ってもらえる、そうでなければ、そこら辺で野垂れ死ぬ、あるいはうち捨てられる、そんな時代です。

鳥辺野へは、死者だけでなく、まだ生きている者も送られました。死は穢れ、また、生きていたとしても病気の者からは感染リスクがあるため、そのまま葬送地へ送られることもあったようです。もちろん、経済的な理由もあったでしょう。生きたまま送られた場合、そこで死を待たなければなりません。

なんとなく、姥捨山伝説に似ていると思いませんか?

昔話や地域の伝承でよく聞く姥捨山伝説は、一定の年齢を超えた高齢者を、もう働けないから、または口減らしなどのために山に捨てるという物語で、実際にこのようなことが行われていたかどうかははっきりしていません。

死期が近いということで、身近な者に葬送の地に送られ、そこでただ死を待つ。

とても切ないけれど、将来一人であろう私自身の死を考えるとき、このような場所があればそこに行けばいいのかな、などと安直なことを考えてしまいます。
ま、実際のところ、怖くて自分では行くことはできないのでしょうけどね。

終活という言葉も一般的になりました。

高齢の方だけでなく、私のように将来孤独になり得る人は、普段から自分の死と向き合い、いろいろと決めておかないといけない時代となっています。
とりあえず、人様の迷惑にだけははならないように。

Sponsored Links